読者の方々には関係のないことですが、実は一昨日僕は誕生日を迎えまして66才になりました。あっという間の66年間でしたが、残りの人生もなんとか無事に過ごしていけたら、と思っております。
せっかく誕生日を迎えましたので、少しばかり過去を振り返ってみようと思います。こう言ってしまいますと身も蓋もないのですが、年を重ねますと、過去の自分の浅はかさに恥ずかしさを覚えることが多々あります。いわゆる「後悔」ということですが、誰しも自分の人生は初めて経験の連続ですので、毎回正しい選択をするとは限りません。そこが人生の難しいところです。
ですので、「後悔」することが多くなるのですが、実際はその「後悔」も「あとから考えてみたら」の結果にすぎません。そのときは、必死に一生懸命考えたのですが、それが間違っていたことになります。しかし、「間違ってしまった」と判断するのも将来の一時期のことであり、さらに年を重ねたあとに「やはり、あれは間違いでなかったんだ」と考えを改めることもあります。
しかし、人間の持つ問題点は、あとから振り返る過去が「本当のことだったかどうか」怪しいことです。なにしろ人間というのは自分の都合のいいように記憶を書き換えているそうですので、現在から過去を振り返ったときの気持ちさえ本当のことかどうかも当てになりません。…ということを養老孟子さんの本を読んだことがあります。人は「記憶を書き換える」ということを養老氏の本で知ったのですが、思い当たる節はあります。
過去や現在に関係なく、人間はどれが本心かわかりかねるときがあります。自分では本心と思っていながら、実際は周りの人の視線や期待を意識した言動をとっていることもあるのが人間です。人間というのは本当にやっかいな生き物です。
そもそも子供の時点というか生まれた時点で、そのときの環境、具体的に言うなら親とか家庭状況によって考え方というか、大げさにいうなら人生観は形作られていきます。その人生観は自分で決めていったようでいて、実際は環境によって決められているのが本当のところです。お金持ちの家に生まれたなら、お金持ちの感性が育てられるでしょうし、貧しい家に生まれたなら金銭に敏感な感性が身につくようになります。
僕に関して言いますと、「自分の環境が貧乏」と自覚したのは高校に進学してからでしょうか。それまで貧乏ではあったのですが、自覚することがありませんでした。自覚をしたきっかけは、隣の席のクラスメートがしきりに自分の部屋の間取りや広さを口にし、そして僕に質問してきたからですが、それまで自分の部屋など持ったことがない僕としては本当に閉口しました。また違う友だちは「一番高い持ち物の披露」を日課としていました。
僕の高校は公立校でしたのでお金持ちだけが集まる環境ではなかったのですが、地域的にお金持ちが住んでいる地区も含まれていましたので、そのような学友がいたわけです。もちろんクラスの全員がそういう意識を持っているわけではなく、お金持ちの地区に住んでいる学友のうちの幾人かがそういうお金持ち自慢をしたがる人だったわけです。
そうしたクラスの中に、のちにラーメン店で出会うT君というクラスメートがいました。T君は全く目立たない学生で、身長こそ180センチくらいあったのですが、痩せ細くて成績も真ん中くらいでクラブ活動もほとんどしておらず存在感の薄い学生でした。僕とは席が近かったこともあり、たまにおしゃべりをしていましたが、運動部で毎日元気に身体を動かしていた僕とは対照的な人でした。
そのT君は外科医になっていたのですが、たまたま通勤途中に僕のお店に立ち寄ってくれ、お互いに再会を喜びあいました。高校時代は気がつかなかったのですが、青年になったT君はとてもイケメンで芸能人のように顔が小さかったのです。T君は高校時代は目立たずモテなかったのですが、青年のT君は不思議なくらいイケメンになっていました。つまり、高校時代とは雰囲気が全く変わっていたのです。
T君が外科医として働いていたのは本当に驚きだったのですが、当時はすでに30才を越えていましたのでもう十分医者としても立派な経歴を積んでいたことになります。T君の言葉で最も印象に残っているのは「外科医って、調理人と一緒で手術の経験をどれだけ積むかが重要なんだよね」という言葉です。
僕がラーメン店を営んでいましたので、「調理人」を例えにしたのでしょうが、包丁とメスという「切る」道具を使うのが共通しているところです。「包丁さばき」ならぬ「メスさばき」で腕のよさが評価されることを話していました。
それはともかく、高校時代は大人しく目立たなかったT君がお医者さんになったのは実家がお医者さんだったからでした。そうした環境にいたことでT君は自然に「将来は医者になる」と考えるようになったのではないかと想像します。
僕の仕事関係の知り合いの方は僕より10才ほど年下なのですが、その方の息子さんが一昨年に見事医学部に入学しました。ですが、その方はお医者さんとは全く関係のない仕事をしていましたので不思議に思い、「どうして息子さんがお医者さんを目指すことになったのか」と尋ねたところ、その方のお父様がお医者様ということでした。その方自身は超一流大学出身なのですが、僕の想像では「自分が医者になれなかった無念さ」を息子さんに晴らしてもらうように子育てをしたように思います。
T君が医者になったのは周りの環境が影響しているのですが、お医者さんのような特別な業種以外の職業に就いている親に育てられる子供は、それぞれ周りの環境から影響を受け、就職先を決めていくことになります。親が普通の会社員の場合は、やはり同じ会社員の道を選ぶのが一般的な進路となりますが、親は下手に口を出さない方が子供のためになります。なぜなら、親は子どもに比べますと社会経験は積んでいますが、たった一人の経験でしかないからです。そのような親が子供のための有用なアドバイスなどできないのが実情のはずです。
そうなりますと、将来の職業の選択は子ども自身の意志にゆだねられることになりますが、その決まり方はほとんどが偶然の賜物です。例えばたまたま読んだ本に感動してその中に書かれていた職業に憧れるとか、知り合いの先輩から聞いた話に興味を感じてその方向に進むとかです。そうした経験に遭遇しなかった人は就活時点での、自らの状況に左右されることになります。簡単に言ってしまいますと、学歴に見合った就職先ということになりますが、有名学校卒業者は一流就職先に決まる確率が高くなりますし、そうでない場合は一流ではない企業に勤めることになります。
しかし、それで人生が決まってしまうわけでもありません。本当に天職に出会う、というかわかるのは社会経験を積んでからです。社会経験を積むことで自分というものがわかりますし、自分がわかって初めて天職も見つかります。不思議なことに、社会経験を積むうちに自分が気づかなかった自分に出会うこともあります。こればかりは自分の力ではどうすることもできませんが、ただ一つ言えることは「気づく」ことの大切さです。
しかし、「気づく」ことさえ偶然が起こさせることもあります。いつもはぐうたらしていてなにもする気力を持ち合わせていない人間がたまたま見た光景に感動して、気持ちが高揚しているときに、たまたま読んだ記事に影響を受けてその道に進みたくなるようなケースです。普段ですと、その記事を読んでもなにも感じなかったはずですが、たまたま気持ちが高揚していたことで気づくことができたのです。ここまでくると「運」としか言いようがありません。
本日の〆の言葉は昔の賢人の言葉です。誰の言葉かは忘れてしまいました。
「人生において就職は大切だが、ほとんどは偶然で決まる」
じゃ、また。