<フリーランス>

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僕のサイトは「脱サラをする前に」というタイトルですが、「脱サラ」を今ふうに言いますと「フリーランス」になります。僕が脱サラを決行した35年前は「フリーランス」などという洒落た名前はありませんでした。ですので、「個人事業主」か個人ではなく「企業形態にして独立」する「起業家」の選択でした。もちろん、「起業家」のほうが「個人事業主」よりも数段難しく、資金も手間もかかりますので、そこまでの才覚を持っていなかった僕は「個人事業主」を選択したわけです。

ですが、お店を構えた当初は、気持ちの底では「もし可能なら、企業化して大きくなればいいなぁ」などと夢物語として思ってはいました。しかし、体験記に書いていますように、現実はとても厳しいもので「起業家」どころか、「個人事業主」として続けていけるのかさえ危ぶまれる状況になっていきました。

それでもなんとか十数年も続けられたのは、一にも二にも「運がよかったから」です。と言いつつ、実は心のどこかには「自分の努力の賜物」という思いもなくはありませんでした。やはり、自分のことを褒めたい気持ちがあるのが人情というものです。しかし、そうした思いがあったのも、ラーメン店を廃業してから4~5年間だけでしょうか。それを過ぎますと、心の底から「運がよかったんだ」と思えるようになっていました。

僕はラーメン店を廃業した7年後にコロッケ店を開業するのですが、その頃は完全に飲食店の成功の可否は「運が占める割合がほとんど」という気持ちになっていました。ですので、ラーメン店開業時とコロッケ店開業時では、心の持ちようが全く違っていました。コロッケ店のときは冷静というか、成功の可否ではなく、「こういう店が生き残れる社会であってほしい」という願いで開業しました。

「こういうお店」とは、「味」でも「立地条件」でもなく、ただ純粋に素朴に、お客様に、「そこにお店があってよかった、うれしい」と感じてもらうお店作りです。そのときの気持ちを一言で言いますと「昔ながらのコロッケ店」です。しかし、現実は僕が願っていたのとは違い、資本主義の荒波をまともに受ける結果となってしまったのですが、そのときもラーメン店のときとは違い、感傷的になることもなく冷静な気持ちで受け止めることができていました。

「そうか、世の中の人ってやっぱりそうなんだ」という思いです。よく情報番組で、閉店するお店に行列ができる映像が報じられ、街頭インタビューでは「とても残念です」などというコメントを話す人がいます。ですが、閉店を余儀なくされたのは、「残念です」と話していた人たちがそのお店を利用しなくなったからです。残念ながら、そうした番組からはこの核心が伝えられることがありません。

僕が脱サラをしたのは、究極的に言いますと「若気の至り」に尽きます。しかし、逆に考えますと「若気の至り」がなければ脱サラを決行できなかったという一面もあります。脱サラするときは、ただ前に向かって突っ走っていましたが、その途中のどこかで躊躇したり悩んだりする時間が少しでもあったなら、脱サラをできなかったかもしれません。

過去を振り返るとき「たら」「れば」は意味がないと言われますが、もし30才のときに脱サラをしていなかったとして、そのままずっと「会社員を続けられていたか」と問われれば、自分としても答えに窮します。会社に行きながら、毎日ストレスとの戦いに明け暮れていた可能性もあります。

ほんの数年の会社員生活で、しかもスーパーマーケットという産業界においては決してレベルが高いとはいえない業界で働いていましたが、そうした環境でも僕の中でビジネス感覚で印象に残っている場面があります。

新社会人として毎日一生懸命働いていましたが、元々身体を動かすのが好きですし、体育会系ですので大きな声を出すことも苦にならない性格でした。そんな僕ですが、新しい直属上司との関係で少しばかり戸惑うことがありました。

それまでの上司はその日のうちにやるべきことを指示しており、肉体派の僕はそれを必死にこなすだけでよかったのですが、新任の上司は「指示を全くしない」人でした。僕は指示をされないと、なにをしていいのか困っていたのですが、あるときその上司は僕に「自分で考えてやっていいんだよ」と話しかけてきました。

僕はそのときに、初めて「仕事って自分で考えて行動するんだ」と思ったのですが、僕はそれまで学生時代のアルバイト感覚のまま働いていたことを思い知らせました。

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先日ある番組で、日本では現在フリーランスで働いている人は「おおよそ500万人」と伝えていました。フリーランスの定義に確たるものはないそうですが、一般的には「特定の組織に所属せず、個人でスキルを提供する働き方をしている人」と説明していました。僕が簡単に言ってしまいますと、シンプルに「会社員でない人」ということになります。

そうした括りで言ってしまいますと、職人系の人はほとんどがフリーランスということになります。昔から存在する職種で言いますとガテン系の人です。確かに、ガテン系の人は「一人親方」という言い方をされることもありますが、会社員のように毎月決まったお給料をもらうわけではありませんし、会社員のように身分保障があるわけでもありませんし、労働者として法律で守られているわけでもありません。

日給形式で支払われることがあるとしても、一つの現場が終わってしまいますと、また新たな現場を探す必要があります。まさにフリーランスです。僕は現在清掃の仕事をしているのですが、その仕事形式も現場ごとに請負金額が異なり、現場単位で支払われています。個人人業主であり、フリーランスなのですが、そこに至るまでに幾度かのきっかけがありました。

最初に清掃業界に入ったのはアルバイト形態の会社でした。それこそ日給で支払われていたのですが、会社が日給にするのは残業代を支払わないようにしたいからです。この会社はまだ起業したばかりで社員も3人くらいしかいない状態でしたので、お店を営んでいた僕からしますと、そうした給与形態にするのも納得できるものがありました。

そうした中、ある日責任者が「請負形態にしませんか?」と言ってきました。請負形態とは個人事業主もしくはフリーランス形態のことですが、アルバイトという雇用形態から請負形態・フリーランスに移行することは、働いている側からしますとかなり不利な状況になることを意味します。

会社に雇用されている労働者はいろいろな法律により身分を補償・保証されています。仕事中にケガを負った場合、雇用保険が適用され、労働者は治療費や休業補償を受けることができます。会社と請負・フリーランスの関係になるということは、そうした身分保障が失われることを意味します。

僕は会社からのその提案に際して、条件をつけました。その条件とは、僕を「雇用形態で契約している場合に会社が支払っている社会保険料などの金額を請負金額に上乗せすること」でした。そのようにしなければ、単に会社側が経費の負担を減らすだけになり、労働者である僕だけがリスクを負うことになってしまいます。そのような不利な状況になることを容易に受け入れることはできません。

それ以降、会社は僕に請負形態の提案をしてこなくなりました。雇用関係の知識がない人ですと、会社からのこうした提案を受けてしまうかもしれません。「個人事業主」という言葉からは、会社員でなくなることの厳しさや重さというものが感じられますが、「フリーランス」という言葉からはそうしたマイナス面が感じられず、気楽さの響きだけが感じられてしまいます。

しかし、「フリーランス」も会社からの補償・保証が受けられなくなるという点では「個人事業主」と全く同じです。最近、ウーバーイーツのような配達業において「自分で働き方を決められる」ことを強調した求人を目にすることが多くあります。

「自分で働き方を決められる」ことをして「フリーランス」と言い、自由がありそうですが、「フリーランス」には会社からの補償・保証が受けられないというマイナス面もあることを認識しておくことはとても重要です。

ひどい例になりますと、「フリーランス」と言っておきながら、「1日の配達量にノルマを課している」請負契約もあります。こうした請負契約の実態は「奴隷契約」といっても過言ではありません。「フリーランス」という働き方にノルマなどがあってはいけないのです。「フリーランス」という言葉に惑わされず、どれだけ自分の裁量で決められるかを慎重に確認することが大切です。

少しでも、「違う」と思ったなら、即座にその契約とは離れるべきです。ブラックは、つながっている時間・期間が長ければ長くなるほど、断ち切るのが大変になります。

じゃ、また。




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