<言いっぱなし>

pressココロ上




僕は車で移動しながら物件の清掃をしていますが、午前中に作業をしていますと小さな子供たちを連れた保育士の方々をたびたび見かけます。みんなで手をつなぎ、ときには台車に数人を乗せているケースもありますが、保育士の方々が気を使いながら一生懸命になって園児たちをまとめている光景を見かけます。

集団の規模はさまざまで少人数のときもあれば大人数のときもあります。もちろん人数に合わせて保育士の人数も増減していますが、共通しているのは子どもたちへのきめ細かな気配りとやさしい接し方です。

そのような光景を見ることが多かっただけに「保育園での虐待」ニュースは驚きでした。実は、驚きというよりも「間違いではないか」とさえ思いました。僕自身も子供が小さい頃は保育園のお世話になりましたが、そうした経験からしますと保育園で虐待が起きるなどとはどうしても想像がつきません。

実は、年をとってからの僕はテレビや新聞が報じるニュースに懐疑的になっています。理由は、マスコミの取材方法や報道姿勢に問題があることをいろいろな事例で知ることが多かったからです。具体的なことをいいますと、マスコミは世論というか社会の雰囲気に迎合する傾向があります。さらに突っ込んでいうなら、警察の考えに流されるといってもいいでしょうか。

そのような考えに至るようになったのは、90年代半ばに起きたオウム真理教事件の報道がきっかけでした。オウム真理教事件とは1995年にオウム真理教という宗教団体が地下鉄でサリンを撒き、多くの人を死傷させた事件ですが、実はその前年に長野県松本市でサリンを撒き住民に被害を与える事件を起こしていました。

この事件のときに容疑者として疑われていたのは、最終的には容疑者どころか被害者であることが証明された河野義行さんという方です。河野さんについてはこれまでに幾度か書いていますが、重複することを承知で、なぜなら何度でも書くほどの価値があると思っているからです。

河野さんは第一通報者でもあったのですが、警察は河野さんの仕事の関連などから疑いを向け家宅捜査まで行っています。約1年、警察から疑われたままだったのですが、翌年オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたことで真実が判明することになりました。

のちに河野さんの手記を読んだのですが、地下鉄サリン事件が起きるまで警察は執拗に取り調べをしていたようです。頭から河野さんを「犯人」と決めつけて捜査をしていたのですが、そうした捜査を後押しするかのように、当時のマスコミは警察の心象を代弁するような記事を書いていました。本来なら証拠がないのですから容疑者でしかないのですが、まるで「犯人である」かのような報道が多くなっていました。

週刊誌などではそうした勇み足的な報道もある程度理解できますが、大手と言われる新聞各紙やテレビまでもが言外に「犯人である」かのような報道を行っていました。もし、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしていなかったなら、河野さんの「犯人説」が通説になっていた可能性さえあります。

実は、僕の「尊敬する人ベスト5」に河野さんは入っているのですが、このときの身の処し方が素晴らしかったからです。河野さんは普通の民間人に過ぎませんが、毅然とした発言やマスコミ対応なども完ぺきといっていいものだったと尊敬しています。僕も含めてですが、ごくごく普通の平凡な精神の持ち主であったなら「自白に追い込まれていた」可能性もあります。ですので、僕は河野さんを精神的にも知見的にも尊敬に値する人と思っています。

この事件をきっかけに僕はニュースの見方が変わるようになったのですが、そうした視点で世の中の出来事を見ていきますと、年を重ねるごとに「おや?」と感じることが多くなっていきました。このようにして疑問に感じる事例が増えるに従い、僕は自然にマスコミや警察の発表に際しては一呼吸置くようになりました。

今回の保育園の事件も「カッターナイフを見せた」とか「両足を持って宙づりにした」などセンセーショナルな事例が報じられています。ですが、センセーショナルであるだけに注意が必要と思っています。昔から「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」と言われていますが、まさに一般の人から注目を集めそうな「見出し」と思えて仕方ありません。

逮捕された保育士の方は3名ですが、先日のニュースでは「忙しさのあまり感覚が麻痺していた」との供述が報じられていました。なんとなく警察の誘導から出た供述のような印象を持ちます。それ以前に、これは警察発表でしかないのが実情です。

3年前に池袋で元高級官僚の方が交通事故を起こし死傷事故を起こしたことがありました。このときマスコミは大々的にこの元官僚の方をバッシングしていたのですが、バッシングにあたりこの元官僚の方を「上級国民」と揶揄していました。こうした呼び方はまさに当時の社会的雰囲気に乗じた報道です。

そのほかにも「保身を考えて、真っ先に息子に電話をした」とか「高級料理店に向かう途中だった」などとありましたが、実際はこれらの報道はすべて事実ではないことが判明しています。それが当時はあたかも真実であるかのように報じられたのは、マスコミが世の中の雰囲気に迎合していたからです。

実は元高級官僚の事故といいますと、同じ頃に似たような交通事故が起きています。一部の報道機関では報じられましたが、大手マスコミではあまり報じられていない事故でした。元東京地検特捜部長まで務めあげた方ですが、この方が池袋の事故同様に渋谷で交通事故を起こし男性一人が死亡しています。どちらにも共通しているのは、事故原因を「アクセルの踏み間違いではなく、車の異常」と主張していることでした。

上級国民という揶揄でいうなら池袋の被告よりも渋谷の被告のほうが適切です。なぜなら池袋の事故の車はプリウスですが、渋谷の事故は高級車のレクサスでしかも若い女性との待ち合わせだったからです。池袋の事故では原因を「車の責任」という主張に対して激しいバッシングが起きたのに対して、渋谷の事故に関しては全くと言っていいほどバッシングは起きていません。理由は、大手マスコミが報じないからです。

バッシングが起きるには、バッシングを受ける対象が広く社会に認知されている必要があります。そうでなければバッシングの「し甲斐」がないからです。バッシングは盛り上がりに盛り上がってこそ溜飲が下がるという特徴があります。その意味において、渋谷の事故はバッシングが起きる要因に欠けることになりますが、その要因を握っているのはマスコミの判断一つにかかっているとも言えます。これは「卵が先かニワトリが先か」の問題になりますが、両方がタイミングよく重なりあってバッシングは起きるようです。

それはともかく、池袋の事故は発生から3年後の今になって、そうした報道が事実でないことが報じられました。しかし、マスコミ全体の扱いでいいますと、あまりに小さいのが実情です。やはり扱いが小さいとどうしても社会に伝えるインパクトは弱くなってしまいます。つまり事実が社会に伝われないことになります。これを「言いっぱなし」といわずなんと言いましょう。

マスコミは報道に際して伝える是非を決めることも重要ですが、実は同じくらい事実の検証も重要です。あとから確認することで報道の責任を全うしたことになります。言いっぱなしで終わるのでは、口先人間のコラムと同じです。今のロシアを見ていますと、マスコミの検証力の大きさを感じずにはいられません。是非とも、マスコミは言いっぱなしで終わらないようにお願いしたく思います。

あ、そういえば、僕、40年前に妻に「幸せにする」って「言いっぱなし」だった…。

じゃ、また。




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