<常連客>

pressココロ上




僕は月に3~4回はリサイクルショップに行くのですが、先日行ったお店で、レジの横に大きめの掲示物があるのが目に留まりました。どんな掲示物かと言いますと、「パワハラ」に関する警告文でした。「大声で怒鳴ったり、威嚇するような行為はパワハラとして対処いたします」と書いてありました。これは従業員を守るためには、とても意義があり、効果もあるように思います。

いくら仕事とはいえ、また相手がお客さんとはいえ、恐怖を覚えながら働くのではたまったものではありません。ニュースなどで「土下座をさせた」お客さんの事例を見たこともありますが、僕からしますと、こうした行為は恐喝です。恐喝は犯罪行為です。そうした認識が社会全体に広がることは、とてもいいことです。販売業や接客業は、お客さんの奴隷になることではありません。ですので、従業員が怖い思いをしないように対処するのは、経営者の務めです。その意味で、先ほどの警告文は、普通のお客さんにとっても良い印象を与えるのではないでしょうか。

恫喝とまではいかなくても、自分の思い通りにお店側を動かそうと考えるお客さんはいます。僕は毎週本屋さんに行っていますが、そこでのある光景が強く印象に残っています。その本屋さんはチェーン店の一つでしたので、それなりに大きな規模の店舗でした。その日、店内を歩いていますと、レジのほうから大きな怒鳴り声が聞こえてきました。何事かとレジのほうを見ますと、70歳くらいの男性が、店長らしき人に向かって怒鳴っていました。話の内容まではわかりませんが、ものすごい剣幕で声を荒らげていました。

まさにお客さんのパワハラに見えたのですが、そのときの店長らしき人の対応が、普通の販売員とは違っていました。なんと、怒鳴り返していたのです。
「それはできません!」
その言葉に対して、70歳くらいの男性は、さらに大きな声で怒鳴っていたのですが、店長らしき人は怯むこともなく、同じくらいの大声で言い返していました。素晴らしいですよね。これぞ店長の姿です。こうした人が店長ですと、ほかの従業員も安心して働けるというものです。

しかし、中には面倒なことを部下に押しつける人もいます。僕が新卒でスーパーに勤めていた頃の話です。店内放送で店長の名前が呼び出されました。その少し後に、たまたま売り場裏の通路で店長と出会いました。僕を見た店長は、「これをバッグ売り場の男性に渡してきてください」と、手に持っていたバッグを僕に渡しました。言われたままにバッグを手に持ち、売り場に行きますと、スーツを着た強面の男性が待っていました。僕が「お待たせしました」とバッグを渡しますと、男性は「店長って言ったのに……」とブツブツ言いながら帰って行きました。不良品の交換か、もしくはお取り寄せだったのかもしれませんが、おそらく店長は逃げたのです。

先日読んだエッセイには、常連客について書いてありました。空港の手荷物カウンターで、大声で係員に怒鳴っている男性について書いていました。「どうして、こんなに偉そうなのだろう」と。「自分がお客という意識が、そうした行為を増長させている」と結び、そして最後に、「常連客となっているお店は、過ごしていて心地よい」「親しき中にも礼儀あり、感謝と尊敬でつながっている」と締めていました。一見、お店とお客の理想の関係を書いているように思えます。ですが、実は違います。

結論を先に書きますと、「お客とお店の関係は、常に主と従」でしかありません。「感謝と尊敬」でつながっていると思っているのは、お客側だけです。もちろん、すべてがそうだと言うつもりはありませんが、90%以上は「主と従」です。仮に残り10%に「感謝と尊敬」の関係があったとしても、何かのきっかけで容易に「主と従」に変換します。理由は単純です。出会いのはじまりが、「お客さんとお店」の関係だからです。

僕の体験記にも書いていますが、新規に開業した場合、お客さんは、自分が過ごしやすいお店にしようと試みてくることがあります。お店側のことを思っているようなふりをして、「自分好みの店」にしようとします。新規開店で難しいのは、このあたりの塩梅です。お客さん側に寄せすぎますと、店主の思い通りのお店になりませんし、だからと言って、店主の思い通りのお店にしようと考え過ぎると、お客さんが離れていきます。いつの時代も、独りよがりは失敗の素です。

と言いながら、僕は「独りよがり」で仕事をすることを目指しています。自分のやりたいことを我慢して、世の中に合わせて生きていて、いったいどこが楽しいのでしょう。どこで満足感を得られるのでしょう。自分の思いと世の中の思いが合致した、その瞬間こそが、生きる喜びではないでしょうか。その瞬間は、なかなか訪れるものではありませんが、せっかくの人生です。僕は、そんなふうに思っています。

僕の人生観はともかくとして、お客さんとお店は、「感謝と尊敬」の関係には、ほとんどなれません。おそらくエッセイを書いた方は、「感謝する」のはお店側で、お客さん側は「尊敬」している、ということを言いたいようです。エッセイの方は、お店に「尊敬」の念を持っているのでしょうから、それを否定するつもりはありません。ですが、お店側が「感謝する」というのは、絶対にそうであると決まっているわけではありません。上辺だけそうしているだけで、心の中では違っている可能性が、かなり高い確率であります。

そもそも、お店側が「感謝している」とお客側が思うこと自体が、すでにお客側の尊大さです。「感謝している(はず)」の裏には、「自分はお客としてお金を払っているのだから」という、お店を見下した思いが見え隠れします。エッセイの方は、そこに気づいていません。係員に怒鳴っている男性を「どうして、偉そうにしているのだろう」と批判しながら、実は自分も同じ心理になっているのです。そのことに気づいていないことが問題です。

では、なぜ気づかないのか。それは、経験がないからです。頭の中だけで考えているので、想像の限界があるのです。人は、経験した範囲内でしか理解することができません。なぜなら、経験していないからです。例えば、赤ちゃんに「熱いヤカンだから気をつけて」と言っても、理解できません。「熱い」ということがわからないからです。それをわからせるには、熱いヤカンに一度触らせるしか方法はありません。これは、すべてのことに当てはまります。

などと、偉そうな、わかったようなことを書いていますが、これらはすべて、これまで書物を読んできたり、いろいろな経験をしてきたことの受け売りです。僕が考えたことでも、経験したことでもありません。そして、それらを理解するには、やはり経験が必要でした。ですので、年をとることにも意味があります。

ですが、年をとればいいというものでもありません。先ほど、本屋さんのレジで怒鳴っていたのは、70歳くらいの男性でした。年齢を重ねても、人格ができるわけではありません。70歳になっても、偉そうに振る舞うことに命を燃やしている人もいます。それが現実です。

こうした考えの僕ですので、基本的に常連客になるような行動はとりません。つまり、顔なじみになるようなお店には行かないようにしています。お店側に気を使わせる、という思いが浮かんできてしまうのです。ですが、お医者さんの場合は、そうはいきません。同じ病院に通うことになりますので、自然に顔なじみになってしまいます。つまり、常連客です。

しかし、先ほども書きましたように、常連客になってしまいますと、相手に気を使わせることになります。ですので、できるだけ親しそうにはしないように心がけています。だからと言って、あまりにそっけない素振りは、相手に感じの悪い印象を与えてしまいます。ですので、適度に笑顔で、愛想のよさそうな振る舞いをします。

正直、常連客は疲れます。

じゃ、また。




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