<君臨者>

pressココロ上




先週のコラムではスーパーのレジで大声でクレームを言っている年配者のことを書きました。そして、最後に大手商社で長年権力を握ったままの実力者について触れました。その実力者の方はマスコミのインタビューによく出てきていましたが、その記事の内容からしますと、その方に対してワンマンで強権でなにごとも自分で決めていくイメージを持っていました。

基本的に僕の性格からしますと、強権的なタイプの人に違和感を持ちますので、この方が気になっていました。そうしたときに、僕の好きな経営者であるファミリーマートの社長・澤田貴司氏が社長職を追いやられる報道に接し、違和感が最大になってしまいました。先週のコラムはそうした経緯があっての「老人と鈴」でした。

「追いやられる」と表現をしましたが、僕がそのように感じた理由について説明したいと思います。澤田氏が社長に就任した当初は、いろいろなメディアで澤田社長の動向を知ることができました。ほかのコンビニの社長とは少し趣の異なった発想が、メディアに好感されたこともあると思いますが、澤田氏自身が情報を発信する重要性を認識していたからだと思います。

ところが、次第にメディアに登場することが少なくなり、そうこうしている間にファミリーマートが伊藤忠の子会社になることが決まってしまいました。こうした一連の流れは澤田社長にはどうすることもできないことです。そして、その伊藤忠のトップが強権的な経営者でした。強権的な人に共通するのは、「結果重視」です。澤田社長の経営手法は「王道を進むやり方」と僕は感じていましたが、「王道」ゆえに結果がすぐにでるわけではありません。

ですが、「結果重視」の企業のトップは一定期間での結果を求めます。残念ながら澤田氏がファミマの社長に就任してからの業績は結果を出せない状況でいました。こうした状況がありましたので「追いやられ」と表現した次第です。しかし、澤田氏は社長の座は退きますが、代表権は持ったままでしたので、それが唯一の救いです。

伊藤忠商事のトップは実力者として君臨しているイメージがありますが、君臨者に共通しているのは「自らは責任を負う状況を作っていない」ことです。「責任」を負わなくてよいのですから、いつまでもトップの座に君臨し続けることができます。このときの重要な肝は、自らを「指示をするだけの立場」にしていることです。

わかりやすい例えを示しますと、スーパーには食品や衣料品、雑貨といった部門がありますが、君臨者は食品部門の責任者に「売上げを上げてください」と指示するのが役割です。売上げを上げるための具体的な方策は示さずに「指示だけ」をします。そして、業績が上がらなかったときは、担当者をすげ替えます。あくまでも業績が上がらない責任は担当者にあるからです。

先ほど「売上げを上げてください」と指示する、と書きましたが、この指示の内容にも肝があります。それは「具体的な方策」は指示をせず、「抽象的な指示をすること」が肝です。例えば、衣料品の場合ですと「今の時代の女性が喜びそうな方向」などという指示を出します。抽象的な指示ですので、結果責任にはつながりません。結果が良ければ、自らの指示の素晴らしさを誇示できますし、結果が悪ければ、担当者の具体的なやり方が悪かったと責任を押しつけることができます。

僕がこうして書いているとき、実はある人物を頭の中で思い浮かべながら書いています。その君臨者は現在は退いていますが、それまではまさに責任を負わない立場を構築していました。その方の言葉で忘れらないのは「トップの役割は方向性を示すことで、それを具体的に行うのが担当者の役割です」と記者会見で述べていた姿です。

僕はこの言葉に反感を抱いたわけですが、経営者の責任は企業全体の結果の責任を負うことです。「方向性を示すだけ」のやり方は責任を部下にすべて押しつけることでしかありません。政治の世界では、「総理の任命責任」という言葉が使われますが、企業においても担当者に具体的な方策を任すのであれば、その担当者を選んだ責任が企業のトップにはあるはずです。君臨者は任命責任から逃げています。

先週のコラムを書いた時点では、ここまで問題が大きくなるのは思っていませんでしたが、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が辞任に追い込まれました。「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」という発言が問題になったのですが、昭和時代の僕からしますと、「うまいか下手か」をさておいて、派閥のトップに君臨する政治家のウィットとも取れますが、今の時代では通用しないようです。

森会長はこの発言の謝罪会見でも「マスコミは面白おかしく取り上げる」と、不満な気持ちを露わにしていましたが、その不満げな対応が問題をさらに大きくしたように思います。今から言っても詮無いことですが、もし謝罪会見で素直に発言の過ちを認めるだけで済ますことができていたなら、この問題は違う展開をみせたように思います。それができなかったのは、昭和時代の感覚が抜けきれない、別の言い方をするなら今の時代の感性が理解できていない、からです。

もちろん昭和時代の感覚は決して褒められるものではありませんが、昭和生まれの僕としてはわからないでもありません。なにしろ、当時はそれが普通だったからです。言い過ぎを承知でいうなら「常識」だったからです。さらに承知でいいますが、おそらく女性の中でも「常識」を受け入れていた方が少なからずいたはずです。当時、森会長のような発言に食って掛かるような人がいたなら、反対にその人のほうが周りから「変わった人」として浮いた存在になっていたでしょう。

しかし、今は男女共同参画の時代です。森会長の感性が通用する時代ではありません。昭和の感性から抜け切れない人たちが組織を牛耳っていたことが、男女が平等な社会ができなかった要因です。これは男女平等に限りません。マイノリティーの人たちが差別されてきたのは、まさに優位な立場にいる人たちが昭和の感性でいたからです。しかもなんの罪の意識もなく…。

この問題で、最も重要なことはこの「なんの罪の意識もなく」ということです。昭和の感性の方々は自分たちの感性が普通ですので「罪の意識を持つ」意味がわからないのです。…おそらく。自民党幹事長の二階さんにしても、ボランティアの方々を単に「手伝いたい人たち」くらいにしか思っておらず、「いくらでも代わりはいる」と思っているはずです。そうでなければ、あのような発言はでてきません。

こうしたときに大切なことは、時代遅れの人生の先輩方に意見を言うことです。昔、それこそ昭和時代ですと手段がありませんでしたが、今はSNSの時代です。昭和時代の僕としては「SNSは万能」とは思っていませんが、それでも昔だったなら不可能なことが今はできます。しかも容易に。

昨年の前半は「黒川検事長の定年延長問題」でSNSが盛り上がっていました。この抗議がきっかけとなり、黒川氏は辞任したのですが、SNSの大きさを見せつける結果となりました。つい最近軍がクーデターを起こしたミャンマーでは軍政権は真っ先にSNSを遮断していますが、いかにSNSの影響力が大きいかを物語っています。

思い起こせば10年前の中東での民主化運動「アラブの春」もSNSがあったからこその成功と言われています。個人が意見を表明できる手段を手に入れたことで独裁政治を終わらせることができたのでした。しかし、今の中東はどうでしょう。まるで冷戦という重しがなくなったあとのユーゴスラビアのように混沌とした状況になっています。

君臨者による統治は弊害もありますが、統治者を失ったあとの混沌も覚悟しておく必要があります。

じゃ、また。







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