<メディアに携わる人々の社会的責任>

pressココロ上




いやぁ、驚きでした。なんとプーチン大統領の支持率が80%を超えたそうですから、驚愕としか言いようがありません。なんの罪もない普通に暮らしているウクライナの方々を悲惨な目にあわせている、その張本人であるプーチン大統領を支持するのですから、何をかいわんやです。

先週も書きましたが、ロシアの中高年以上の方々はテレビからしか情報を得ていないそうで、そのテレビが真実ではなく、プーチン大統領が望むような情報のみを伝えていることが大きな要因だとは思います。ですが、ここまで来てしまいますと、僕は「無知の罪」という言葉を思い出さずにはいられません。

この言葉については以前(2007年8月19日)コラムにて書いているのですが、そのときの文章を再掲させていただきます。

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これは映画監督の伊丹十三氏の父・伊丹万作という方が「戦争を総括する」意味で書いた随想に書かれていた言葉です。戦争を引き起こした大元の原因は「日本人全員にある」という内容で、当時は大きな議論を巻き起こしたそうです。

「知らなかった」ということは免罪符にならない。
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先々週のことですが、いつも見ている夜のニュース番組を見終わったあとに、たまたま違う局のニュース番組を見ていたところ、なんと街頭インタビューに出ていた人が同じ人でした。街頭インタビューですから一般の人のはずですが、同じ人が2つのテレビ局の街頭インタビューで同じような質問に答えていたことになります。僕からしますと、これは「ヤラセ」です。

そこで少しばかり検索をしてみますと、そのような事例はこれまでにも幾度かあるようで、同一人物が各テレビ局の街頭インタビューに出ていました。おそらくテレビ局の意図ではないのでしょうが、自分の意見を社会に浸透させたいと思っているか、もしくはもっと単純に「テレビに映りたい」という他愛のない理由で街頭インタビューに出ている可能性もあります。

どちらにしましても、こうした状況での街頭インタビューに意味があるのか甚だ疑問です。街頭に出て撮影しているスタッフの人たちは、そのことを知っているはずです。検索したサイトでは、同一人物がインタビューに掛け持ちで答えているようすが写真でアップされていました。繰り返しになりますが、このようなインタビューを放映してなんの意味があるのでしょう。

このような状況を見せられますと、街頭インタビューの真実性・公平性に疑問を持たざるを得ません。テレビ局が望むような意見をする人だけを選ぶことも可能だからです。それは、プーチン大統領が望む報道だけを伝える国営テレビと同じことをしていることになります。

4月は各テレビ局が番組編成を改変する時期ですが、NHKでは午後7時半から「クローズアップ現代」が戻ってくるそうです。憶えている方も多いでしょうが、国谷裕子さんがキャスターで2016年まで23年間続いていた報道番組でした。しかし、ある事件をきっかけに国谷キャスターが降板することになり、番組名も少しばかり変更して夜の時間帯に移行していました。その番組が元のゴールデンタイムに戻ってきます。

「ある事件」とは、ひと言でいいますと先ほどと同じ「ヤラセ」です。番組で放映された映像が被害の様子を伝えているようでいながら、実際には取材記者の指示によって被害者が動いていたそうです。そのことを当の被害者が暴露したことで発覚した事件でした。これでは事件の捏造と同じになってしまいます。

この事件を聞いて僕が頭に浮かんだのはドキュメンタリー作品についてです。もしかしたなら取材記者は、事件をわかりやすくするために「シンプル」に、もしくは「大げさ」にしようとしたのかもしれません。ドキュメンタリー作品も似たような問題があります。

以前書いたことがありますが、ドキュメンタリー監督である森達也氏は「純粋なドキュメンタリー作品はあり得ない」と語っています。撮影者は24時間常に一緒に行動をともにしているわけでもありませんし、対象者は撮影されるときにどうしても身構えてしまいます。そうした状況では真の意味でのドキュメンタリー作品は不可能です。

僕は「radiko(ラジコ)」というアプリで毎週「宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど」というラジオ番組を聴いています。先週のゲストは「ぼけますから、よろしくお願いします。 おかえり お母さん」を監督した信友直子さんでした。ちょうど公開を控えた時期でしたので、宣伝の意味合いもあったのでしょうが、撮影時の苦労話を興味深く聴くことができました。

「なんとなく」という程度なのですが、この映画の前作については聞き覚えがあります。2018年に公開された「ぼけますから、よろしくお願いします。」というドキュメンタリー映画なのですが、それが好調だったので続編ができたのだと想像します。

しかし、話を聴いていますと、やはりドキュメンタリーの限界を感じてしまいました。監督自身も語っていましたが、「四六時中撮影しているわけではない」のですから、「自然な生活ぶりを映像に残すのは無理がある」というのが僕の正直な感想です。ちなみに、プロデューサーには映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」の監督大島新氏の名前が連なっていました。

「ハガキ職人」という仕事をご存じでしょうか。読んで字のごとくハガキを書く人のことですが、「職人」と名乗るくらいですから、有能な技能が必要な仕事です。宮藤さんの番組はいろいろな職種に就いている方々の愚痴を聞く構成なのですが、数週間前に出演していたのが「ハガキ職人」として活躍している方々でした。

ラジオ番組では日にちごとにテーマを決めて聴取者さんからエピソードを募集するのが一般的なやり方です。そのエピソードを聴取者として送るのが「ハガキ職人」です。放送だ作家業界に従事している人たちは新人のときは必ずと言っていいほどやらされている修行です。例えば、もうお亡くなりになりましたが、作詞家の阿久悠さんは元は放送作家なのですが、新人の頃にたくさん投稿していたそうです。現在著名な方々も新人の頃には経験している仕事ですが、文章を書く腕を上げるには最適な修行なのでしょう。

しかし、普通の感覚からしますと、聴取者からの純粋な投稿ではありませんので、これも「ヤラセ」の部類に入りそうです。少なくとも、僕の感覚では間違いなく「ヤラセ」です。多くの人から共感を得る文章を作らなければいけないのですが、そのためには少なからず創作もあるはずです。

なにしろ普通の人の生活って、さほど面白くもない平凡なことがほとんどです。みんなが聴いていて、大笑いをしたり感動したりする出来事はそうそうは起こりません。そうした生活の中で、番組を盛り上げるためのハガキを作らなければいけないのですから、創作が入るのも容易に想像できます。しかし、そうしたハガキは純粋な投稿ではありません。

神さまではない人間にはいろいろな問題点がありますが、その一つに「慣れ」があります。最初のうちは犯罪との境界にドキドキしていた出来事も幾度もやっているうちに感覚が麻痺してくることがあります。先日、貸金業法違反で有罪判決を受けました公明党の遠山清彦被告もその例の一つでしょう。「慣れ」が感覚を麻痺させたのだと思います。

こうした報道に接していますと、メディア業界に携わっている方々にも認識を新たにしてほしい、と願っています。言うまでもなくメディアは社会に大きな影響を与えます。同じ人が複数の街頭インタビューに答えている光景を見て、なにも違和感を感じない感性が問題です。「おかしい」と感じないこと自体がすでに感覚が麻痺している証拠です。

メディア業界に従事している方々には、社会への影響が大きいがゆえの社会的責任というものがあります。そのことを何卒、何卒、強く、強く認識していただきとう存じます。

目覚めよ。大越さん、有働さん。

じゃ、また。




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