<ノンプロライター>

pressココロ上




先週は「ネット3人衆」というタイトルで、僕がネット上で知るようになったライターさんを紹介しました。おそらくインターネットが普及していなかったなら、絶対に知るよしもなかった人たちです。ネットが普及する以前、文章を書く人との接点は書籍とか雑誌とか、いわゆる紙の媒体しかありませんでした。その意味でいいますと、インターネットの普及は本当に意義があることだと思っています。僕の年齢的には「ギリギリ」ですが、間に合ったという感じです。

文章を発表することの敷居が低くなったことで、よく見かけるようになったのが「文章の書き方」を伝授するサイトおよび人の多さです。文章を書きたいと思っている人はたくさんいるとしても、実際に「どのように書いていいのかわからない」と悩んでいる人が意外に多いようです。本屋さんに行っても「ブログの書き方」などを指南する本がたくさん並んでいます。「書き方」はわからないけど、「書いてみたい」と思っている人がいかに多いかの証明です。

「書きたい」ことがあっても「書き方がわからない」人がすがりたくなるのが、教えることを伝授してくれる「書き方のプロ」の人たちです。ですが、ここに落とし穴があります。それは、「その教えが、果たして正解なのか」という疑問です。

ネットが普及する前、文章の書き方を学ぶには本に頼るしかありませんでした。そして、そうした「文章書き方指南本」は、多くが新聞や雑誌など出版業界界隈で文章を書いていた人たちが著者、というケースがほとんどです。出版するには「売れる」ことが求められますし、「売れる」ためにはそれなりの知名度が必要です。そうなりますと、自ずと「文章を書くことを仕事にしている人」ということになります。

具体的に言いますと、新聞記者とか雑誌のライターなどといった人たちですが、これらの肩書は大きな武器になります。このような人たちは、こうした武器を背景に本を出す以外にもカルチャースクールなどで講師を務めていることがあります。しかし、こうした方々の指南が正解かどうかはわかりません。

このコラムでたびたび書いていますが、僕は「たまむすび」というラジオ番組を聴いています。赤江珠緒さんがパーソナリティーで、月曜日のパートナーはカンニング竹山さんです。その竹山さんが先日嘆いていました。先月「共通一次試験のカンニング事件」がニュースになりましたが、その事件について大手新聞社からコメントを求められたそうです。

竹山さんが嘆いていたのは、求めてきた新聞社がタブロイド紙でもスポーツ新聞でもなく一般紙で、しかもれっきとした大手といわれる新聞だったことでした。竹山さんが「どうして僕に?」と問いますと、芸名に「カンニング」とついているからでした。竹山さんの口調からは嘆きとともに「情けなさ」までが伝わってきました。

この話を聴いて僕も驚いたのですが、新聞社に勤めるほとの人ですからそれなりの高偏差値の持ち主だと思います。それほどの人が「入試のカンニングだから」という安易な理由で、芸人の竹山さんにコメントを求める短絡さに情けなくなります。あまりにも安易な発想には驚くしかありませんが、最近の新聞記者のレベルがいかに低くなっているかを物語るエピソードでした。

このエピソードは、文章を書く仕事に就いている人が必ずしもレベルが高いとは限らないことを示していますが、次は反対のお話です。

先月芥川賞・直木賞の発表がありましたが、これまでの受賞者の中にはカルチャースクールのような「書き方講座」で学んでいるケースがままあります。以前NHKの朝の番組「あさイチ」に出演していた女性のお医者さんはそうしたスクールで学び、そのつてから出版社を紹介され、作家デビューを果たしていました。

このような実例を見ていますと、「教えてくれる人」の存在は意味があるように思えますが、こうした例はあくまで稀なケースです。この女医さんが通ったカルチャースクールにしても、その講座に通っていた方はほかにもたくさんいたはずです。それらのほとんどの方は作家の夢を果たせないままで終わっています。そうした現実からしますと、その女医さんが作家デビューを果たせたのは、講師の人脈などいくらかは意味があったかもしれませんが、それは作家デビューへの道のり全体からしますと微々たるもので、結局はその女医さんの、努力と根性も含めた「才能」に行きつくと思います。

あれれ、「反対の話」ではありませんでした。やはり「教えてくれる人」というのはあてにならないものかもしれません。経済評論家の山崎元さんは「専門家が自分でやった方が儲かることを他人に紹介するはずがない」と諭しています。山崎さんが指摘しているのは金融の世界、例えば株売買とかFX業界のことですが、これは文章を書く業界にもあてはまるように思います。

「文章」は、売れることを必須条件にしないなら、誰でも書くことができます。誰でも心の中には自分の思いがあるはずです。中には「全然なにも考えていない」という人もいるかもしれませんが、「なにも考えていない」ことが「自分の思い」です。それを文字にするなら、それが文章を書くことになります。

繰り返しになりますが、誰でも文章を書くことはできます。そうした状況の中で、文章を生業にしたいとき、売れるうまい文章を書ける人が増えるということは、競争相手が増え収入が減ることを意味します。つまり、「書き方」を教えるという人が、本当に文章を書くことで収入を得ているなら、自分で自分の首を絞めることになります。このことから導かれる結論は、「文章の書き方を教えている人」は文章を書くことを生業にしていないことです。

わかりやすく言いますと、「文章を書く」ことを仕事にしていない、できない人が「文章を書く」ことを教える仕事に就いていることになります。経済評論家の山崎さんが言っていたように「専門家が自分でやった方が儲かることを他人に紹介するはずがない」のです。つまり、文章で書くことで収入を得られない人が、「文章の書き方」を教えていることになります。

僕が若い頃に従事していた飲食業界も同様です。飲食業の成功のやり方を伝授している人がいましたが、本当に儲かるのであれば他人になど教えずに自分で実行すればよいだけです。それをせずに「教える」ということは、すなわち「成功の法則などない」ことの証明でしかありません。

文章の書き方に定型などありません。「わかりやすい文章」とか「感動を与える文章」となりますと話は変わってきますが、単に文章を書くだけなら誰にも教わる必要などありません。特に、ブログのように誰にも負担をかけず迷惑をかけない場面であるなら、好きなように書けばよいのです。

とは、言いつつも、多くの人に読んでもらいと思うなら、それなりの勉強と努力は必要でしょう。しかし、繰り返しますが、それは他人から教えられるものではなく、自らの努力で見つけるものです。

僕はnoteなど素人の方も投稿できるサイトを見ていますが、素人の方でも面白く感動する文章を書いている人がたくさんいます。単に世の中に知られていないだけで、うまくて感動的な文章を書いている人がたくさんいることを実感しています。

いろいろな方の文章を読んでいますと、いつも思うのですが、世の中って知らないことが本当にたくさんあるんですよねぇ。人生の残り時間を考えますと、人間の知識の量ってたかがしれてるよなぁって、思っている今日この頃です。

そして、自分の思いを文字にすることに関しては、他人を傷つけることさえしなければ、表示回数を競っているわけでもありませんし、売上げを心配する必要もありませんので「書きたいことを書けばいい」という心境でいます。ただ、正直に告白しますと、「書きたいことを書いて」広告収入が得られることを目論んではいます。(^_-)-☆

じゃ、また。




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