<僕の人生とほかの人の人生>

pressココロ上




毎年3月11日を迎える頃になりますと、東日本大震災関連のニュースをどこのチャンネルでもどこの番組でも放映します。あれだけの甚大な災害でしたので、まだ被災から立ち直っていない人もたくさんいます。復興半ばの状況の中で「災害を忘れない」「関心を持ち続けさせる」という意味においてマスコミは大きな役割を果たしています。貧困問題に取り組みノーベル賞を受賞したマザー・テレサ氏は「愛の反対は、無関心」と訴えています。

人は得てして、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」生き物です。被災した当初は原発の恐ろしさを実感していた人たちも年月が過ぎるとともに少しずつ関心が薄れていき、それは取りも直さず恐怖心が減少することでもあります。

そうであるからこそマスコミが報じることに意義があります。最近は小泉元首相が「原発の危険性」を講演などで訴えていますが、小泉元首相が方針転換を表明した当初こそマスコミは興味本位に報じていましたが、月日が流れるとともにニュースとしての価値が薄れていったようで最近ではあまり見かけなくなりました。

小泉元首相が方針転換したときに、印象に残ったのは「俺は官僚に騙されていた」という言葉です。「騙されていた」内容とは安全性に関してです。原発の後処理はまだ道半ばですが、もしかしたなら「半ば」にも行っていないのかもしれませんが、危険性が残っているのは間違いありません。

先日のニュースでは、格納庫内の燃料デブリ(溶け落ちた核燃料)に遠隔操作されたアームが触れる映像が映し出されていました。しかし、震災から8年も経って初めてようやっと燃料デブリを取り出す作業の前段階なのですから、安全性確保への道が遅々として進んでいないことを示しています。

実は、僕にとっても大震災が起きた日は一生忘れられない日です。毎年書いているように思いますが、3月11日はコロッケ店を廃業した日であり、また僕たち夫婦の結婚記念日でもあるからです。すべては偶然ですが、印象に残る日となっています。

僕のことはともかく、社会が東日本大震災への関心を薄れない努力をすることはとてもいいことです。繰り返しますが、「愛の反対は、無関心」です。東日本大震災が起きる前の大きな災害と言いますと、1995年(平成7年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災でした。このときの映像も衝撃的でした。高速道路がゴロンと横向きに倒れていたのですから、まるでSF映画でも見ているかのような感覚に襲われました。

阪神・淡路大震災の災害に対してもマスコミは毎年1月17日がくる度に特集を組んでいました。阪神・淡路大震災はボランティア元年と言われたきっかけもありますが、全国から多くのボランティアがかけつけたことが大きく報じられました。しかし、当時はボランティアを生かす術が整っておらずいろいろなところで問題が起きました。この震災がボランティアを活用する対策を考える契機となりました。

このときの教訓として闇雲にボランティア活動に行くことのマイナス面があります。ボランティア活動はきちんと組織的に活動をしませんと、「被災者を支援したいという」思いとは裏腹に被災者の邪魔になったり負担になることがわかりました。また、市役所などの公共組織との連携の必要性も指摘されました。

さらにボランティアをする個人の問題点も指摘されるようになり、ボランティアをする際の心構えや服装や持ち物などの準備に関する規範なども作られました。実際問題として、ボランティアのなにげない一言で被災者を不快な思いにさせたり傷つけたりする事例が散見していたのです。

どんなことでも外から見ているのと実際に行うのでは大きな違いがあります。脱サラでラーメン店を開業するときによくある勘違いが「おいしい味を作れば、成功する」という発想です。お客さんとして外から見ていますとそのように思えますが、売る側になりますとそんな単純な話ではありません。

ボランティア活動でもそれと全く同じことが起きます。被災者を支援するには支援に相応しい、または値する活動のやり方というものがあります。ボランティア側の勝手な思い込みだけで活動していますと、それは支援どころか問題を増やすことにしかなりません。

僕は齢を重ねるに従っていろいろなことを学びましたが、その一つに「責任を負わなくていい人ほど優しくなれる」という考えがあります。人は、自分に負担が及ばない範囲においてのみ優しくなれるのです。当然と言えば当然ですが、自分に負担が及びませんので人当たりのよい優しい言葉をいくらでもかけることができます。

残念なことですが、世の中はゼロサムゲームです。ゼロサムゲームとは「参加者全員の得点の合計が常にゼロである得点方式のゲーム。一方が得点すると他方が失点するため、全部の持ち点の和が必ずゼロになるというゲーム理論」ですが、人間に欲望がある限りこの理論が適用されることになります。

理想は「全員が得点を得られること」ですが、世の中はそのようにできていません。今ふうに言いますと「win win関係」ですが、一見「win win関係」に見えても、詳細に見て行きますとゼロサムな関係であることは少なくありません。

震災後に「東北の人を応援しよう」などという言葉とともに東北産の農産物を販売するキャンペーンなどがありました。ですが、理念とは裏腹に行動で示す人は少ないのが実状でした。当時、僕は東北産の果物を販売していましたが、「東北産」と聞いただけで足早に去って行った人を幾人も見ています。

僕は、ゼロサムゲームに則って動く人を批判しようとしているのではありません。人は「ゼロサムゲームに則って動く」ということを前提としてものごとを決めていくことが大切です。

みんながみんな、他人の気持ちを思いやって生活することには無理があります。そもそも地球上の全員が幸せになることを思いながら生活をすることは現実離れしています。今現在不幸な渦中にいる人は、自分以外の人の不幸に関心を持つことはできません。僕は、沖縄の基地問題を憂慮していますし、ベネゼエラで苦しんでいる子供たちのこともかわいそうだと思いますが、ずっと考え続けているわけではありません。

こんな僕ですが、多くの人が僕と同じはずです。世の中は僕のような人が集まって社会を作っています。政治はそのことを前提に政策を決めることが必要です。

安倍さん、よろしくお願いいたします。

じゃ、また。




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