<有耶無耶の到着点>

pressココロ上




政府のコロナ対策が迷走しています。誰が考えても、「学校関連施設に対して、休校を要請」したのは唐突な印象があります。おそらく安倍さんがどのような対策をしたとしても、批判を免れることはあり得ません。施政者にはそうした批判をうける覚悟が必要なのは安倍首相も自覚しているはずです。

それでも敢えて「休校要請」をしたのは、パフォーマンスを示したかったからでしょう。僕にはそう映りました。「困難に立ち向かう姿勢を国民に見せる」、この一点に尽きる「休校要請」と僕は思っています。

ですが、今回に限って安倍さんは対応を見誤った感があります。僕はこれまでに幾度かこのコラムで安倍さんを取り巻くスタッフを称賛したことがあります。世の中の感覚を実にうまく感じ取っていました。そうした感性のすばらしさが安倍首相の高支持率につながっていると思っていました。

この感性は、マスコミの感性を上回っていました。「マスコミがこう伝えたなら、世論というか一般の人はこう感じる」、または「一般の人は関心を持たない、行動をしない」という予測能力に長けていました。

その感性に翳りが見えてきたのが今回の対応です。ネット記事には、菅官房長官との不仲説が書いてありましたが、それも影響しているのかもしれません。真相はわかりませんが、安倍さんの周りのスタッフになにかしらの変化が表れているのは確かなように思います。

少し週刊誌的なことを指摘しますと、安倍さんのブレーンの一人と言われていたジャーナリストが女性暴行事件で訴えられていますが、それも関係しているのでしょうか。就職を餌にして女性に乱暴するのはジャーナリストの風上にもおけない事件です。もちろん、この事件が事実であったらですが…。なにしろこのジャーナリストは控訴していますので判決が確定したわけではありません。

そもそも刑事事件ではなく、民事での裁判です。刑事事件で不起訴になった経緯についても、逮捕寸前に上からの圧力で中止になったという噂もあります。まるで刑事ドラマのようですが、そのような噂に信憑性を感じてしまう安倍政権に問題があります。

例えば、森友学園、家計学園問題もその一つです。もう4~5年も前のことですが、どちらも安倍さんが便宜を図ったかどうか問題になっています。結局、どちらも有耶無耶なまま現在に至っています。特に、森友学園では官僚が安倍首相をかばうためにいろいろ画策したこともわかっていますが、それでも有耶無耶です。この問題で有名になった言葉が「忖度」です。官僚が勝手に忖度したのですから、安倍首相には責任が及ばないことになります。

昨年末からは「桜を見る会」の説明が有耶無耶のままです。総理主催の「桜を見る会」が安倍首相個人の後援会に「利用されていたか否か」が問題となっています。普通の感覚で考えるならどう見ても答えは「黒」です。開催したホテルの説明からしますと、どう考えても「黒」です。それでも有耶無耶にできる今の政治状況が問題です。民主主義の根幹を揺るがせる危機的な状況です。

そうした状況の究極の問題といえるのが、現在国会で問題になっている黒川検事長の定年延長です。簡単に言ってしまいますと、「安倍首相にとって都合のいい人物を検事総長にしようと画策した」ことですが、これがまかり通ってしまいますと、日本は民主主義どころから法治国家でもないことになってしまいます。それほど重要な問題です。

ここまで政権の横暴を許してきたのは、国民ももちろんですが官僚にもマスコミにも、そして野党にも責任があります。国民は選挙に行かないことで、官僚は保身の気持ちが強すぎることで、マスコミは「ジャーナリストの気概が失せたこと」で、野党は小異を捨てきれないことで、責任があります。

もし、国民がもっと政治に関心を持って政権を監視し投票に行っていたなら、もっと緊張感を持った政権運営をするはずです。最近の投票率の低さはあまりに悲しい数字です。政治は政治家に任せるのではなく、国民自らも考えることが民主主義の根幹です。

もちろん、投票の際は「自分だけの幸せ」を望むのではなく、「社会全体が幸せになる視点」で政治家を選ぶことが大切です。確かに、多くの人の幸せを考えることは面倒くさいですが、それを避けていては平穏な社会は築けません。

マスコミが記者クラブで官報に成り下がっていなかったなら、ジャーナリストの役割を果たしていたはずです。管官房長官を追求する社会部の望月記者をだれ一人として援護しない政治部の記者の方々に、政権を監視する役割を認識している人はいませんでした。

かつて政治を政治家ではなく官僚が仕切っていた時代があります。その名残を示す光景を今でも国会で見かけることがありますが、当時の官僚は本気で「政治家に任せていたら日本が大変なことになる」と考えていました。なにしろ各大臣が会議をする前に、各省庁の事務次官が集まって大事な要件を調整していました。大臣はその報告または説明を受けていただけだったのです。

今でも忘れらないのが、小泉政権時代の田中真紀子外務大臣に対する官僚の対応です。田中氏は政治主導を目指していた数少ない政治家でしたが、その田中氏に対して官僚は「差し違えても」という言葉を使ってこれまでのやり方を踏襲することを目指していました。

また、民主党政権時代の長妻昭厚生大臣は、官僚にそっぽを向かれなにもできないままで終わってしまいました。それほどかつての官僚は力を持っていたのです。それを改めようとしたのが安倍政権です。一番の改革は、やはり官邸が官僚の人事を握ったことです。これによって、官僚主導から政治主導にすることができました。

しかし、今の政治状況を見ていますと、政治主導が裏目に出ています。安倍首相は政権が官僚人事を押さえたことで、自らの意に沿う人を抜擢するようになってしまいました。最初にそれを感じたのは、2014年に行われた内閣法制局局長の抜擢です。安倍首相は集団的自衛権を容認したかったのですが、それまでは法制局が容認していませんでした。そこで、法制局のトップを容認派に入れ替えました。

覚えているでしょうか、当時憲法審査会で容認派と思っていた憲法学者までが集団的自衛権を違憲と意見しました。それほど無理がある集団的自衛権の容認でしたが、結局は容認されることになりました。それを可能にしたのが法制局局長の人事でした。

このようなことが続きますと、官僚は保身に走ります。いわゆる忖度をするようになります。かつての官僚の矜持などどこ吹く風です。かつてはいい意味で、官僚が政治の暴走を止めていましたが、忖度する官僚にそれを望むのはむべなるかなというものです。

そうした政治の延長線上に現在の検察庁の定年延期があり、それを正当化するためのごまかしがあります。もっと簡単に言ってしまいますとウソの上塗りを続けざるを得ない状況に追い込まれています。そして、これまではそうしたやり方が通用していました。森友学園・家計学園の問題があろうとも、集団的自衛権のごり押しがあろうとも、選挙で圧勝する政権です。「驕るなかれ」というほうが無理な話です。

しかし、もしかしたなら今回のコロナウイルス対応が転落のきっかけになるかもしれません。これまでの世論に対する感度が鈍ってきたように思います。それは一にも二にも「有耶無耶にすることが通用したこと」にすべての原因があります。

子供が聞いても、「答えにならない答弁を堂々と繰り返す姿」ほど情けない光景はありません。

じゃ、また。







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