<正しい試合>

pressココロ上




開催直前までいろいろな問題が噴出していたオリンピックも、中盤を過ぎ佳境に入ってきています。開催にあまり賛成でなかった僕もやはり結果は気になっています。賛否両論がある中、賛成派からは「いざ始まれば、反対していた人たちも五輪開催を喜ぶ」という手のひら返しを予想する声がありましたが、その術中にはまっている感は免れないように思っています。

特に、マスコミに対しては「手のひら返しが強くなる」という指摘がありましたが、実際テレビ番組はそのような編成になっています。なにしろ僕がいつも見ている「家族に乾杯!」や「サラメシ」、「プレバト」、「ブラタモリ」などがこぞって休止になっています。

スポーツ大好き人間の僕としましては、競技自体にはやはり関心がありますので、いつも見ていた番組の代わりにオリンピックが放映されることにそれほど抵抗はありません。ですが、競技や結果以外の報道に対しては反発的な感情が出てきます。

例えば、出場する競技とは直接関係のない映像などには強い辟易感があります。具体的にいいますと、選手がいつも通っていた飲食店とか競技を始めたきっかけとなった人物などの紹介です。無理やり感動話に作り上げようとする意図が感じられて不快にさえなります。

テレビ局はこうした感動話やストーリー作りが視聴者を惹きつけると思っているようですが、時代遅れも甚だしいです。テレビの人気が凋落傾向にある原因に制作陣の方々が気がついていないことの証です。

日本が一応、それなりに盛り上がっているのはやはりメダルラッシュが続いているからです。もし日本人の活躍が少なかったなら興味もそがれるというものです。しかし、競技の初っ端となった柔道が快進撃を続けましたので、国民の関心が高まったように思います。しかし、最近の僕は「公平な競争」について考え込んでいます。

以前、デッさんの言葉で「オリンピック 昔肉体競技 今科学技術競技」と書きましたが、科学技術が発達している環境で練習している選手と科学技術が遅れている環境で練習して選手とでは実力に差がついてくるのは当然です。

数年前、マラソン界で厚底シューズが世界を席巻しましたが、機能が高まったシューズのほうが好記録を出すのは当然です。さらにその前には水泳競技において「高速水着」が問題になったことがあります。こちらは機能の高さゆえに使用に制限が設けられましたが、競技の結果が選手の努力以外によって決まることに対しては納得できないものがあります。

以前コラムで書いたことがあるのですが、「巨人の星」の左門豊作のエピソードは競争の意義を問いかけるものでした。簡単に説明しますと、星飛雄馬の魔球を打ち崩すためには通常の練習以上の肉体的鍛錬が必要なのですが、その鍛錬を実行するにはレギュラーの立場を放棄する必要がありました。レギュラーを手放すということは即ち報酬が低くなることを意味します。

財閥の御曹司である花形満は、経済的に心配などありませんのでその肉体的鍛錬を行うことができました。それに対して、左門は幼い弟や妹を養うために報酬が低くなることを受け入れてまで練習をすることはできませんでした。その環境の違いに左門豊作が涙を流しながら兄弟姉妹を抱きしめている場面は忘れることができません。

同じことがオリンピックでも起こっているように思います。経済的に豊かな国の選手と発展途上の国では練習方法が違い、練習環境も違い、さらに言うなら競技人口が違います。競技人口が違うということは競技全体のレベルが低いことを意味します。このように選手を取り巻く環境が違う状況で、オリンピックという土俵でハンデもなく戦うのです。果たしてこれが「公平な競争」といえるのでしょうか。

柔道は体重別で競技が行われます。理由は体重の違いが勝利に影響を与えるからです。ボクシングやレスリングでも同様ですが、できるだけ公平な競争をするために必要な体重別制度です。僕は同じことが選手を取り巻く環境でも行われるべきだと思っています。先進国では効率的な練習方法が確立され、サポートする環境も指導者も含めて整っています。それに対して発展途上国では脆弱な環境で練習が行われています。勝負はこの段階で決まっています。

最近は日本でもラグビーの人気が上がってきていますが、そのきっかけとなったのは一昨年のラグビーワールドカップの日本開催でした。「にわかファン」という言葉まで生まれましたが、この言葉の示すとおり、それまでファンはあまりいませんでした。

ラグビー人気が高まるその一つ前のきっかけとして2015年のワールドカップがあります。弱小国日本が優勝候補の一角と言われていた南アフリカに勝利したのです。世界にセンセーショナルに報じられるほど画期的な勝利だったのですが、その勝利に導いたのがエディー・ジョーンズ氏という世界的に有名なヘッドコーチでした。

ジョーンズ氏はとにかく練習が厳しいことで有名でしたが、単に厳しいだけではなく、人生をかけるほど練習に集中することを選手たちに求めていました。それくらい練習しないと世界とは戦えないと指導していました。単純に言いますと、「朝から晩まで、起きてから寝るまでラグビーにかけろ」ということです。

ここで僕の疑問がふつふつと湧きあがってきます。「朝から晩まで、起きてから寝るまで」ラグビーに費やすということはそのほかのことは全くするな、ということと同じです。左門豊作のように収入の問題は、日本という経済大国では心配いらないかもしれません。しかし、プライベートの時間が全くとれなくなることは、果たして人間として幸せなことでしょうか。

普通の人にとっては、友だちと遊んだり映画を観たり恋人と時間を過ごしたり、家族がいたなら妻や子供たちと一緒に過ごしたりすることが生きる意味です。それらをすべて投げうってラグビーにだけ集中することが果たして幸せとなるのでしょうか。そんな禁欲生活を過ごして得た勝利にいったいどんな意味があるのでしょう。

アスリートの方々の中には「見ている人に感動を与えたい」とインタビューに答えることがありますが、練習環境や状況が違う選手同士が戦うのは決してフェアな試合とはなりません。そのような試合で戦って得た勝利に感動する人はいないでしょう。戦時下で練習もままならない環境から出場した選手と、恵まれた環境で練習した選手とでは最初から勝負はついています。もしかしたら、練習がままならない環境の選手のほうが才能が優れている可能性もあります。

そもそもの話をしますと、かつてオリンピックはアマチュアの人しか参加できない大会でした。それが時代の変化により、プロも参加できるようになったのですが、プロとアマチュアでは練習環境が全く違います。中にはアマチュアと言いながら実質的にはプロと同じ環境の選手もいます。それはともかくプロとアマチュアでは練習の時間や質が全く違うのですから自ずと技術レベルも違ってきます。そうした選手同士が戦うことは、僕からしますとフェアな試合とは思えません。

繰り返しになりますが、練習時間に限った場合でも、1日3時間しか練習できない環境の人と1日12時間練習できる環境の人とでは実力に差がついて当然です。これは練習の質についても当てはまります。このようなことが積み重なるならその差はとてつもなく大きなものとなります。もしかしたら、練習環境が劣悪な選手の中には、恵まれた練習環境にいる選手よりも優れた才能の持ち主がいる可能性もあります。仮にそうであったなら、その選手のほうが多くの人から称賛の声を贈られるべき資格があることになります。

そうしたことを考えるとき、真の意味での勝利を決める際は、練習時間も練習環境もそして練習の質までも同一にして試合をすることが正しい試合のやり方のように思います。

「公平」って、難しい。

じゃ、また。




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