<我を一番愛す>

pressココロ上




 これまでにも何度か書いていますが、僕が今まで生きてきて、一番心に響いた言葉は、山口県光市で起きた妻子殺害事件の遺族である本村氏の涙を流しながらの言葉です。
「僕はあかの他人のためには涙を流さない」
 僕にとっては頭の中のモヤモヤをふっ飛ばしてくれたとても衝撃的な言葉でした。それまでの僕は、「他人の辛さに100%同調しきれない自分」に対して後ろめたさや罪悪感さえ感じることがありました。ですから、本村氏のこの言葉を聞いたとき、その「核心をついたシンプルさ」ゆえに、霧が晴れた気持ちになりました。この言葉をニュースの一画面で聞いたとき、まさに「そうか!」と感激したのが忘れられません。
 普天間基地問題がいよいよ期限の5月を迎えましたが、先日ニュースで沖縄県民の集会の模様を見ました。鳩山首相がこれだけ沖縄県民に期待を持たせたのですから、県民が「県外移設」を訴えるのも尤もな感情です。そんな中、ある婦人がテレビ局のインタビューに答えていました。
「本土の人たちは、もっと沖縄に対して関心を持ってほしい」
 僕は、この発言を聞いた当初は「当然の主張だ」と思ったのですが、しばらくしてふっと本村氏の言葉が頭をよぎりました。人間は誰しも「あかの他人のために涙は流さない」のです。ということは、つまり「あかの他人には関心を示さない」ことに通じます。誰しも「自分が一番幸せである」ことを望むものです。そこで、僕は考えました。果たして、沖縄の人たちは本村さんが事件に遭遇したとき、どれだけ関心を持ったか…。自分のこととして捉えたか…。
 僕は19才の頃、盲腸で入院したことがあります。発見が遅かったので腹膜炎になってしまい約1ヶ月の入院生活を送りました。手術後、歩ける程度に回復したある日に体験した場面が頭から離れません。
 その日、僕はエレベーターに乗っていました。僕が入院した病院は中規模の病院で産婦人科もありました。僕が一人で乗っていたエレベーターが、産婦人科の階で止まり看護婦さん(当時は看護士では看護婦と呼ばれていました)が2人乗りこんできました。エレベーター内にはパジャマを着た僕だけです。二人の看護婦さんは僕がいることを忘れたかのように会話をしました。
「さっき、一匹死んだのよ」
「ふーん、まぁ、仕方ないよね」
 僕は衝撃を受けました。亡くなったのは人間の赤ちゃんです。その赤ちゃんの単位を「匹」と言ったのです。まだ多感な19才がどれほど驚いたかおわかりでしょう。
 人はあかの他人のためには涙を流さない…。
 この会話の光景だけで看護婦さんたちを評価するなら、非人道的と非難されても仕方ありません。けれど、人の死を一般の人のなん倍も見ている看護婦さんにしてみたらいちいち悲しんではいられません。赤ちゃんの死と言えども、単なる現象でしかないはずです。仮に、感情移入して心の底から悲しんでしまっては精神的肉体的にもたないしょう。
 こうしたことは医師も同様です。たくさんの患者さんと接する医師が全ての人に感情移入してしまっては仕事が成り立たなくなって当然です。もちろん、だからといって医師や看護士の人たちが患者に対してぞんざいに接していいということではありません。患者並びにその関係者に対して心配りをするのは医療に従事する人たちの務めです。そうなのです。仕事の一環として患者ならびに関係者に対しては真摯に対応する必要があるのです。もちろん、どんな仕事に就いている人でも仕事中は演技をしているのと同様に演技であってかまいません。というか演技でなければならないのです。
 僕は足利事件の菅家さんについても取り上げることが多いですが、死ぬほど苦しい思いをした菅家さんに対して、沖縄の人たちはどれほど思いを馳せたでしょう。冤罪で人生を台無しにさせられた人は菅家さんだけではありません。ほかにも、刑期を終えたあとに真犯人が見つかった冤罪事件もありました。このときの男性は冤罪発覚時にはマスコミに出ましたが、それ以降はあまりマスコミに登場していません。たぶん、「そっとしておいてほしい」という気持ちが強いのでしょう。あかの他人の集まりである世間ほど、全く無責任に不躾な視線を浴びせるものはありません。そうしたことが起こるのも「あかの他人」だからです。
 このように個人もしくマイノリティの人たちが、自分たちでは抗いようもない理不尽な境遇に追いやられるケースはいろいろな場面で見られます。例えば、地域では「ゴミ処理場」の問題もあるでしょうし、国全体では「原子力発電所」の問題もあります。過去に遡るなら公害もそうでしょう。住民にはなんの落ち度もないにも関わらず、企業からひどい仕打ちを受けたのですから住民の怒りが沸き起こっても当然です。それらの報道に接したとき、果たして沖縄の人たちは「基地に対する憤り」と同じくらい関心を持ったでしょうか…。
 このように書きますと、僕が沖縄の人たちを非難しているように思われるかもしれません。しかし、決してそうではありません。ただ、「人はあかの他人に対しては関心を持たない」ということを前提にして考え、活動すべきだと訴えたいのです。僕を含め、米軍基地とは無縁の本土の人たちは沖縄集会の報道を見ても「大変だぁ」と感想を持つ程度です。そうした「あかの他人」を動かすのは並大抵ではありません。水俣病が解決したのはなんと先週です。優に30年以上が過ぎています。沖縄の人たちもあきらめずに根気よく米軍基地に対して自らの主張を訴えつづけるしか方法はないのではないでしょうか。
 基本的に「本土の人たちに、沖縄の人と同じ目線で考えてほしい」という訴えには、沖縄の人たちが「本村さんと同じくらい悲しい気持ちになれない」のと同様に、無理があるように思います。考えてみますと、民主主義というシステムは「自分を一番大切にすることで成り立っている」イデオロギーであるような気がします。
 それにしても人間は悲しい生き物です。以前、仏教関連の本を読んでいましたら、「人間は自分が一番かわいいけど、その自分の範囲を少しでも広げる努力が大切だ」と書いてありました。「言うは安く、行うは難し」です。
 僕なんて、少しでも店の利益を出すために仕入先に対して「安くするように」いつも言っています。そのたびに、悩むんですよねぇ。仕入先のことも考えると「安くして」とはあまり言ってはいけないようにも思いますし…。いったいどう対処するのがベストなのかまだ分かりかねています。いつか答えが見つかればいいなぁ…。
 ところで…。
 「金子みすず」さんという作家をご存知でしょうか。社会における弱者の視点で心に響く詩を残している女性です。以前、このコラムでも紹介したことがありますし、数年前にブームになったこともありますのでご存知の方も多いのではないでしょうか。その「金子みすず」さんを記念した団体がありまして、その団体が昨年、詩を公募していました。今週の最後は、その公募に落選した詩で締めくくりたいと思います。
アフリカで人が餓死しても
ヨーロッパで人がテロ死しても
アラブで人が爆撃死しても
亜細亜で人が弾圧死しても
アメリカで人が銃撃死しても
隣国で人が拷問死しても
国内で人が虐待死しても
近県で人が自死しても
隣町で人が孤独死しても
町内で人が病死しても…
人はペットが死んだとき涙する
 じゃ、また。




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