<邪欲>

pressココロ上




 先週の「ガイアの夜明け」を見ていましたら、「邪欲」という言葉が思い浮かんできました。番組の内容は、60才を過ぎてから起業する方々を紹介するものでしたが、その中のひとりの方が口にした次の言葉を聞いたときです。
「最後に、ひと花咲かせたい」
 たぶん、若い方が口にしたのなら、気にも留めなかったでしょう。ですが、60才を過ぎ、人生も終盤に差しかかろうかという年齢の方から発せられると、違和感を感じます。「ひと花咲かせたい」とは己の欲望に過ぎません。その己の欲望を満たすのが目的の起業では、
起業する理由としては些か心もとない気がします。起業とは、「ひと花咲かせたい」という薄っぺらな欲望で達成できるほど甘いものではないはずです。
 起業に関連して先週の大きなニュースといえば、やはりアップル創業者であるスティーブ・ジョブズの死去のニュースです。ジョブズ氏の死は多くの人に惜しまれていますが、その理由はといえば、やはりジョブズ氏の起業が「ひと花咲かせたい」などという狭量で薄っぺらな欲望ではなく、もっと広大で革新的な欲望が目的だったからではないでしょうか。ジョブズ氏ほどのレベルまで行きますと、「欲望」などという言葉も適当ではないように思います。敢えて言うなら、「夢」です。「社会を変えたい」という夢をかなえるための起業と言ってもいいでしょう。だからこそ、多くの人がジョブズ氏の死を惜しんだのに違いありません。
 今週の本コーナーでは「土光敏夫氏」の本を紹介していますが、若い人の中で土光氏の名前を知っている人はどれくらいいるのでしょう。たぶん、知らない人のほうが多いと思いますが、それにも関わらず本屋さんの平台の目立つところに平積みされていました。僕には、その光景から、最近の出版会の傾向が感じられました。
 本コーナーのコメント欄でも少し触れましたが、東日本大震災以降、出版の世界でひとつの流れができているように感じます。それは、過去に一時代を築いた政財界人を再注目する流れです。震災が日本人のそれまでの考え方を変えたことも影響しているのかもしれません。浮かれた気分ではなく、しっかりと大地を踏みしめ、自らの人生に真摯に向き合う生き方を思索する気持ちが強くなっているように思います。そうした社会の変化に合わせるように出版会にひとつの流れが生まれ、そのひとつが土光氏に再び光を当てることです。
 そうした昔の成功者に再び光を当てる流れの中で、大切なのはその人選です。読者を惹きつけるような人選をしなければ売上げは伸びません。
 過去に成功者はたくさんいますが、死後も多くの人から支持される成功者はそう多くはありません。ほとんどの成功者が、時代とともに忘れ去られていきます。その違いはなにかといえば、起業の目的であり、理由であり、思い入れだと僕は思っています。今、「起業」と書きましたが、これは「経営」と言い換えてもいいでしょう。土光氏などは、起業家ではありませんでしたが、企業の頂点である社長・経営者として立派な業績を残しました。そこには、邪欲などなく、経営者として企業の業績を上げる、または社会に役立つ、という純粋な欲望、純欲しかなかったように思います。
 僕が、土光氏をここまで信頼するのは、以前読んだ本が影響しています。
 いつの時代も、政治家と産業界の癒着は事件になることが多いですが、かつて造船疑惑という事件が起きたとき、土光氏も逮捕されました。そのときに土光氏を取り調べた検察官が退職後に書いた本を読んだことがあります。その中で、取調べの際の土光氏の態度を「実に立派だった」と褒め称えていました。僕はその本を読んでから、土光氏が経営者として裏表のない信頼できる人物と思うようになりました。
 しかし、僕の本当の気持ちを言うなら、ある有名人を死後もずっと立派な人物として後年の人たちの記憶に残させるのも、いろいろなテクニックを駆使することで可能です。ですから、死後もずっと語り継がれているからと言って、その著名人が本当に立派な人物であったかどうかの判断は難しいところがあります。それを見抜くには、やはり多くの本を読み、多くの経験をし、多くの情報を選り分ける力を養うしか方法はありません。若い皆さん、勉強をしましょう。
 ちょっと話が逸れたついでに、今週の本コーナーで紹介しています、あとひとつの本について書きます。石津謙介氏も薄っぺらな欲望で起業、経営をした方ではありません。そこには、やはり社会を変えよう、という強い思い入れがあったように思います。
 石津氏は、「VAN」ブランドの創業者ですが、僕には「VAN」に関連して記憶に残っている出来事があります。
 僕が大学卒業後に最初に社会人になったのは中規模のスーパーですが、そこには「VAN」からの転職組がかなりの人数いました。理由は「VAN」が倒産したからです。先輩の話では、ある時期の衣料部門のバイヤーは「VAN」からの移籍組で占められていたそうです。そして、その会社での僕の最後の上司はその移籍組のひとりでした。
 その上司はバイヤーの役職から係長として店舗に異動してきたのですが、そのことにコンプレックスを持っているように見えました。やはり、小売業では「販売職」よりも「バイヤー(仕入れ)職」のほうが格上のような雰囲気があります。ですから、上司にしてみますと「降格」と感じていたのでしょう。
 ある日、違う売り場の同僚が小さな声で僕に話しかけてきました。
「係長が本部に黙って、勝手に商品を仕入れるから困ってるんだよね」
 本来、あってはならないことですが、上司は休みの日にメーカーに行き商品を勝手に仕入れているのでした。かつての栄光が忘れられなかったのでしょう。ここまできますと、驚きを越えて哀れにさえ思えてきます。つまらないプライドほど傍から見ていて悲しいものはありません。中高年の皆さん、つまらないプライドは捨てましょう。生きるときの妨げにしかなりません。自戒も込めて…。
 このように見てきますと、邪欲と純欲の違いは欲の対象となるものの違いであるように思います。前者は自分であり、後者は社会です。つまり、自分のためではなく、社会のために活動することが純欲です。そして、純欲で活動した人だけが死後も多くの人から支持され、いつまでも惜しまれる人物となるのではないでしょうか。
 異論反論を覚悟のうえで例を上げるなら、戦後に起業したソニーのふたりの創業者である井深氏や盛田氏、同じように本田氏と藤沢氏というふたりの創業者で作ったHONDA、水道哲学を提唱した松下幸之助氏もそうでしょう。また、最後は身包み剥がれて失敗者の烙印を押されましたが、ダイエー創業者の中内功氏も純欲な起業家のひとりに上げておきたいと思います。
 読者の皆さん、なにかの決断を迫られたとき、その基準のひとつに「その選択は邪欲か純欲か」もくわえることをお勧めいたします。
 ところで…。
 「ガイアの夜明け」の番組の中で、ある中年の技術者が「商品は完成した」けど、それを販売する段階で戸惑う場面がありました。それまで、販売職の経験がない人が一番戸惑うのは「売る」ことです。番組内でもコンサルタントの方が指摘していましたが、「買って下さい」という簡単な言葉を口にすることができないのです。そこには、やはり「つまらないプライド」があるからです。そのプライドが邪魔をして「買って下さい」が言えないのです。
 時代が移り変わろうと、人のイメージの中には「士農工商」は生き続けているのが実状です。僕はテキストの中で幾度か書いていますが、「商」に徹しきれない中高年は意外に多いものです。脱サラをする際に最初にやることは、自分の意識を確認することです。「商」に徹しきれるか…。それを怠るなら、どんなに素晴らしい立地条件であろうと成功することは難しいと考えるべきです。
 僕に関していうなら、販売職一筋30年以上経ちますが、年をとればとるほど、「頭を下げる」行為に抵抗を感じるようになっています。僕の場合は、プライドが邪魔をすることはありませんが、なにしろ「頭を下げる」と頭部の地肌が丸見えになるのが気になるんですよね…。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする