<新聞・ニュースの意義>

pressココロ上




 少し前のコラムで、9月に体調を崩した話を書きました。忘れもしません。9月9日(金)の夜から約2週間、毎晩高熱と闘ったのでした。
 それまで僕は毎晩、晩御飯を食べたあとは新聞を読むのが日課でした。午後9時頃から30分~1時間をかけてじっくりと読むのが楽しみでした。しかし、高熱を出していたあの2週間に限ってはその日課を享受することができませんでした。なにしろ、39度を越える体温でしたので新聞を読むどころではなく、苦痛から逃れることしか頭にありませんでした。人間、39度を越えると意識が朦朧としてきます。そんな人間が考えることは、ただただ体温を下げることだけです。そのときの気分は、「なにはなくとも平常熱」といったところでしょうか。もちろん、新聞には手を触れることさえありませんでした。
 そんな状況でしたので、僕は朦朧とする意識の中で「新聞代がもったいないなぁ」と悔やんでいました。
 もう既に大分前から、新聞の未来について悲観的な論調が広まっていました。誰が考えてもほかのメディアに比べて「速報性」では劣りますし、「信頼性」におきましても「記者クラブの弊害」などが指摘されていました。自分の足で検証することなく、ただ政府の発表を右ら左へ伝えるだけでは、社会の木鐸とまで言われた新聞の社会的役割も色褪せたものになってしまいます。
 このように、社会的役割を果たせないでいる新聞ですが、それでも僕は毎晩「読むことを日課」にしていました。その理由は、「解説」として読むためです。「解説」という言葉は今ひとつ核心をついた表現ではないかもしれませんが、要するにある事実を「深く掘り下げた記事」が読みたいからでした。解説を掲載できることは新聞の長所です。
 もちろん、新聞に対して懐疑的な僕ですので、解説を鵜呑みにしているわけではありません。心の中で「そんなわけないだろ!」とか、「違うんだよなぁ」とか、「~に気を使ってるな」などと感想を述べています。妻によりますと、たまに「声を発する」こともあるそうですが…。
 解説を100%信頼していなくとも、新聞を読むことによってひとつの考え方・主張を知ることができます。しかも、ある一定の高さを保った考え方・主張です。いくら木鐸として役割が減少したとはいえ、ひとつの指針とはなりえます。そこに、新聞の解説を読む意義があるというものです。それを期待しての毎日の日課でした。
 しかし、高熱を出していた2週間は全く読みませんでした。
 僕には、そのほかにあとひとつ日課がありました。それは、テレビのニュース番組を見ることです。ニュース番組の長所はなんと言っても「速報性」です。反対に、短所は「掘り下げた解説」です。テレビにはスポンサーという制約がありますし、時間といった制約もあります。これらの制約が、テレビニュースが深さを追求することを妨げています。
 ニュース番組のこの短所は、ちょうど新聞の長所と重なり合います。そうです。僕にとって、新聞とテレビニュースは補完しあう関係性になります。この関係性が、まさに僕が新聞を読むこととテレビニュースを見ることを日課にしている大きな理由です。
 しかし、体調の悪化により僕はその両方を享受することができなくなっていました。なにしろ、「うー、うー、唸るしかできなかった」のですから…。
 では、その間、僕がニュースに全く接していなかったか、というとそうではありません。「世の中の動向、大好き人間」の僕がそんな状況に耐えられるわけがありません。そのときに僕が頼りにしたのがインターネットでした。僕は、夜の12時頃に毎日約5分間で世の中の動きをチェックしていました。
 大分前ですが、僕は本コーナーで「ヤフーのトピック」に載せる記事を決めている人の本を紹介したことがあります。世の中にはたくさんのニュースがありますが、その中からヤフーのトピックに載せる記事を選ぶ作業はとても重要です。僕は、今もトピックは必ずチェックしていますが、その選定眼には尊敬の念を持ちます。
 話が逸れてしまいましたが、僕は高熱を出していた間、ヤフーのトピックしか読んでいませんでした。
 このような僕とニュースの関係が続いていたのですが、10日目を過ぎた頃、僕はあることに気がつきました。それは、布団に横になりながら「そういえば、もうなん日も新聞を読んでないなぁ」と思ったときです。
「あれ? 別段困ってもいないなぁ…」
 続いて、「テレビニュースも全然見てないなぁ」と思いました。そして、同じように気がつきました。
「生活するのに、なんの支障もないなぁ…」
 そうなのです。僕は新聞を全く読まなくとも、またテレビニュースを1分たりとも見なくとも生活をするうえでなんの問題も起きていなかったのです。そのことが僕には不思議に思えました。もしかすると、人生を生きていくうえでは新聞もテレビニュースも「必要ない」のかもしれません。
 「いつ頃だったか」を全く思い出せないほど前、僕は引退した細川元首相が新聞のインタビューに答えている記事を読んで「不愉快に感じた」ことをこのコラムに書いた記憶があります。その理由は、細川氏が「引退後は、新聞もニュースも読んでいない」と答えていたからです。そのとき、僕はコラムで次のように批判したように思います。
「一国の総理を務めた人物が、引退したからといって社会に無関心でいるのは無責任である」
 当時の細川氏は陶芸に没頭しており、一般社会と距離を置こうとしているように感じられました。
 その細川氏がつい先日、朝日新聞で当時の自民党総裁の河野洋平氏と対談をしていました。対談では、現在の政界についてふたりで意見を述べ合っていたのですが、そこでの細川氏は現在の政界・政局に対して積極的に自らの考えを述べていました。細川氏が現在も新聞やニュース番組を見ていないかはわかりませんが、新聞紙上での細川氏の発言は、少なくとも新聞やニュースに一定期間接していなくとも、すぐにその空白を埋めることは可能であることを証明していたことになります。それはつまり、「新聞やニュース番組を見ること」がそれほど重要でないことの裏返しでもあります。
 今の若い人は、「新聞もテレビニュースも見ない」と言われます。そして、それを批判的に指摘する年長者がいますが、それは的外れかもしれません。実際、僕は今回の経験を通して痛感しました。さらに正直に言いますと、今の僕の心境は「新聞もテレビニュースも見るのは時間の無駄」ではないか、とまで思っているのです。
 極端すぎるかなぁ…。
 ところで…。
 現在、ギリシャの金融不安をきっかけにして世界的に「格差社会の是正」が叫ばれています。世界のあらゆるところで、デモが起こっているようです。僕がそうした動きを知ったのは、ニュースを見たからですが、そのニュースを報じているのは新聞やテレビニュースにほかなりません。
 新聞の社説では「行き過ぎた格差」に警告を発し、ニュース番組のキャスターは弱者を思いやる発言をしています。でも、僕はそうした社説やキャスターを見るたびに思うんです。この方々は格差の恩恵をこうむっている側である、という認識があるのでしょうか。
 じゃ、また。




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