<関心麻痺>

pressココロ上




いろいろ意見はあるでしょうが、僕は今の日本はまだ「健全な社会」だと救われた気分になります。

突然、こんなことを書いて、「変な人」と思われるかもしれませんが、実際に僕は「変な人」ですし、今の正直な気持ちです。ロシアで大統領選挙が行われていますが、日本から見ていますと到底「選挙」とは思えない「選挙」です。反プーチンの政治家が立候補を認められなかったり、逮捕されたり、最悪の結果である殺されたりしています。こうした現状を見て、ロシアの人たちはなにも感じないのでしょうか。

ニュースでは、プーチン大統領に抗議の声を上げる人々が拘束されている映像も流れてきますが、少数派のようで大きな反発な動きにはなっていません。百歩譲って、拘束する理由が「社会の混乱を防ぐため」だとしても、多様化が標ぼうされる今の時代において、支持率80%を目指すプーチン大統領の発想は異常です。世の中にはいろいろな考えの人がいて当然なのですから、80%の支持率になるはずがありません。というか、そんな高支持率が成り立つ社会こそ危険です。かつてのナチスでさえ熱狂的な支持で、最高は43.9%だったそうです。(https://president.jp/articles/-/72794?page=4)

僕は映画評論家の町山智浩さんのファンですが、その町山さんがラジオで紹介していた「関心領域」という映画がアカデミー賞をとりました。予告や解説記事などを読みますと、この映画は強制収容されているユダヤ人ではなく、ナチス側の生活を描いた作品ですが、アウシュビッツ強制収容所と壁一枚隔てた屋敷に住む収容所の所長とその家族の暮らしを描いているそうです。

贅沢な暮らしをしているナチスの家族の隣でユダヤ人の虐殺が行われていることになりますが、想像するだけで恐ろしい状況です。この映画の解説を読みながら、僕が想起したのはサザンオールスターズ・桑田さんの「真夜中のダンディー」という楽曲でした。

♪愛と平和を歌う世代がくれたものは
♪身を守るのと知らぬそぶりと悪魔の魂
♪隣の空は灰色なのに
♪幸せならば顔をそむけてる

「隣の空が灰色でも、自分が幸せなら気がつかない」ふりをしている現代人の心の中を皮肉っています。ウクライナやガザで苦しんでいる人々がいて、そして、日本も含めて世界で観光旅行を楽しんでいる人たちがたくさんいます。観光旅行を楽しんでいる人たちを批判するつもりは毛頭ありませんが、天国と地獄が地球上で同時に存在していることにはなにかしらモヤモヤしたものを感じます。

前にも書きましたが、戦争の当事者であるウクライナの人でさえ、戦争地とそこから離れた地域に住んでいる人では戦争に対する思いに大きな違いがあるそうです。当事国の人でさえそうなのですから、まったく関係のない人たちが娯楽を享受してもなんの問題もありません。そうではあるのですが…。

先日、なにかの記事で1989年に起きた宮崎勤事件を検証する記事を読みました。この事件は東京と埼玉で幼女・少女4人が誘拐殺害された事件ですが、その犯人が宮崎勤でした。この検証記事で最も印象が強かったのは、犯人の部屋を取材した際のマスコミのやり方でした。

幼女・少女を殺害した事件ですので、マスコミとしては性犯罪者というレッテルを貼りたかったのでしょう。部屋の中にはたくさんの雑誌・ビデオがあったのですが、性犯罪者に結びつきそうなものはなかったそうです。そうしたときに、錯乱して積まれた雑誌の下のほうで一冊のエロ雑誌を見つけ、それを一番目立つところに引っ張り出してきて撮影したそうです。まるでほとんどの雑誌が「エロ関連」であるかのように。

政治の世界で今最も注目されているのは政治資金の裏金疑惑問題です。政治倫理審査会のやり取りについても報じられていますが、解明にはほど遠いものを感じます。そうした状況を受け岸田政権の支持率も低空飛行を続けていますが、マスコミ各社によって数字にばらつきがあるのが僕にはとても不思議です。

例えば、岸田内閣支持率について毎日新聞では14%、読売新聞では24%、朝日新聞では21%(2月18日現在)と報じられています。毎日と読売では10%も差があるのですが、マスコミによって支持率が違っていていいはずがありません。しかし、巷間いわれているのは読売、産経は政権「寄り」で毎日、朝日は政権に批判的という傾向です。

トランプ氏が大統領になったとき、大統領就任式に集まった群衆について事実とは異なる状況を発表した広報官がいました。有名な「もう一つの事実」事件ですが、事実が2つあるはずはありません。片方は間違いなく「ウソ」です。米国でもトランプ「寄り」のマスコミとそうでないマスコミがいわれることがありますが、報道に「寄り」があってはいけないのは日本と同様です。もし「寄り」が許されるのなら、国民はなにを基準にして判断すればよいのかわからなくなります。

日本には記者クラブ制度というのがありますが、大手マスコミの方々はそうした制度に安住しているように見えます。さらに言うなら、記者クラブに入っていない記者・ジャーナリストを排除しようとしているようにも見えます。いわゆる既得権益ですが、こうした制度が「寄り」を生んでいるように思います。

しかし、人間にはそれぞれ自分の考えというものがあり、それが自分を作り出しているのは間違いありません。記者の方々も人間ですので同じことがあっても不思議ではありません。その体でいいますと、マスコミにも「自分の主義主張があって当然」となりそうですが、偏向のある報道では読者は困惑してしまいます。

僕が常々疑問に思っているのは、マスコミが報道に際して「ストーリーを作りたがる」ことです。先ほどの宮崎勤事件での写真撮影もそうですが、自分たちの考えているストーリーに沿って記事を書こうとしがちです。しかし、ストーリーありきの報道では真実を伝えることはできません。

「ストーリーありき」はやりすぎとしても、自分たちの考えに沿った報道では読者に事実を伝えることはできません。そうならないために、記者の方には「報道のプロ」としての実力を発揮してほしいのです。普通に考えて、記者の方は一般の人よりもいろいろな場面を数多く経験しています。そうしたプロだからこそ、一般の素人ではわからない、判断できないであろう事実について、中立という立場で読者・視聴者に伝えてほしいのです。いえ、「伝える義務がある」と思っています。

ですが、現実は正反対です。保守派・リベラル派などとラベルを貼られるほど異なる立場から「事実」「事象」を伝え、解説しています。もちろん中には「中立」を目指している記者の方もいるのでしょうが、全体としては改善される道筋が見えません。その理由は、記者の方々が「組織の報道のあり方」についての関心を持っていないからです。メディアを見渡しますと、ときたま大手マスコミからフリーに転じた肩書の人がいますが、そうした人たちはマスコミという組織に限界を感じたのだろうと勝手に想像しています。

反対に、フリーにならずにそのままずっと組織に残っている方々は組織の問題点への関心が鈍感になっている可能性があります。自分たちの行っている報道姿勢になんの違和感も持たなくなっているのです。自らの報道姿勢に関心を持たない人が報道のあり方について疑問を感じるはずがありません。かのマザー・テレサ氏は「愛の反対は無関心」と語っています。報道の在り方に問題を感じないのも同様です。関心領域は自分で変えることができます。

学生の頃、政治に詳しい友人は「新聞は社説にその新聞の主義主張が書かれている」と教えてくれました。これまで書いてきましたように、世の中にはいろいろな考えがあるのが当然ですので、社説で自分の主義主張を訴えることはあってもいいと思います。ですが、事実・事象を偏った立場で伝えることには反対です。自分が属してメディアへの関心が麻痺しては、いつしか道を間違えることになります。

また、国民も政治に対して関心麻痺になってはいけないのは言うまでもありません。

じゃ、また。




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