僕の最近のコラムは漫画家さんに関連する内容が多くなっていますが、その理由はもちろん芦原妃名子さんが急死したことが大きな要因です。たまたま先月のコラムで漫画家という職業について書いていたこともあり、自然に書く機会が多くなりました。芦原さんの問題に関してはまだまだ収束する気配がありませんが、それは本来説明する義務もしくは責任があるテレビ局と出版社が会見を開いていないからです。時間とともに関心が薄れるのを待っている感じがして、あまりいい気分ではありません。
僕は今、「この父ありて 娘たちの歳月」(梯久美子・著)という本を読んでいます。この本を購入した理由は、僕が興味を持っている女性作家の方々が「自分のお父上」について語っているからです。しかし、まだ途中なのですが、「よくこういう内容の本を出版できたなぁ」というのが正直な感想です。
素人の分際で偉そうな感想を書いて恐縮しますが、その理由は、登場する方々が今の若い人はあまり知らないであろうと思われる作家だからです。しかも、女性作家の方々が話す内容は、戦中から戦後と60代後半の僕でさえ知らない時代のことです。今の若い人が関心を示すとは到底思えません。そうであるにもかかわらず、「1,800円+税」というそれなりの定価で販売されていました。
出版社の方々には申し訳ないのですが、僕が書籍を買うのはもっぱらブックオフです。ですので、定価よりも数百円安く手に入れたのですが、それでもガストのランチの倍くらいです。しかし、反対に考えますと、若い人が興味を持たないであろうと思われる本だからこそ、高くしなければいけないのかもしれません。つまり、その価格設定にしなければ収益的に成り立たないということです。
僕はそこに漫画と文芸誌の違いを感じます。僕は求人サイトに登録しているのですが、そこから流れてくるのは漫画業界の裏方の職種です。僕が漫画業界を登録していることが理由ですが、例えば「色付け」とか「スケジュール調整」といった職種のほかに「編集者」の募集もたくさん流れてきます。
その募集要項には「求められる人物像」というのがあるのですが、必ずあるのが「時代に合わせてヒット作を考えられる人」という項目です。「ヒットする作品しか作らない」という会社の強い思いが伝わってきますが、それと正反対な発想と思えるのが、僕が今読んでいる「この父ありて 娘たちの歳月」です。
そこで、僕は考えました。同じ出版社でも、「漫画」と「文芸」では、発想・やり方が違うのではないだろうか、と。「漫画」は必ずヒットする作品しか作らないのですが、「文芸」はヒットうんぬんよりも「世の中に出さなければいけない」「出したい」と思う作品を収益度外視で出版する、と。そうとでも思わなければ、「この父ありて 娘たちの歳月」が出版された理由が思いつきません。
もし僕の想像が正しいのなら、文芸に携わる出版社の方々の、作品・出版に対する並々ならぬ強い思い入れが感じられますが、現実問題としてヒットしなければ業界・企業が成り立ちません。ですので、出版社はいろいろな対策を講じます
僕は毎週本屋さんに立ち寄りランキングを見るのを楽しみにしているのですが、数週間前から売り切れになっている本がありました。「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」というタイトルですが、僕が行く本屋さんでは同じ作者の似たような本がもう一冊ランキングに入っています。どちらも小説ではありますが、表紙はアニメ調になっており若い人に好まれそうなデザインになってはいます。しかし、それだけで「売り切れ」になるとは思えません。
あとで合点がいったのですが、「売り切れ」の原因は「映画の効果」にありました。テレビのCMで知ったのですが、昨年の朝ドラ「舞いあがれ!」の福原遥ちゃんと、今の朝ドラ「ブギウギ」の水上恒司さんのコンビで描くラブストーリーです。昔から使われている手法ですが、映画とタイアップすることで書籍の売り上げアップに成功しています。
映像とのタイアップで本を売る手法は、僕の記憶では角川春樹さんが作ったと思いますが、効果があるのはこれまでの歴史が証明しています。その手法を取り入れたといえばそれまでですが、効果があったのは間違いありません。それはともかく、「あの花が咲く丘で、…」を出版しているのはスターツという出版社なのですが、この出版社で思い出したのが「ケータイ小説」でした。
うろ覚えでしたので調べましたところ、2002年頃にYoshiさんという方が個人で発表していた「Deep Love」というケータイ小説を初めて書籍化したのがスターツ出版でした。僕の記憶では、この本は当時の女子高生には絶大な人気を博していたのですが、いわゆる大手出版社からは軽く見られていたように思います。つまり、「こんなのは文学ではない」という評価です。
先日、ある作家の方が「AIが作る小説」について自らの考えを述べている記事を読みました。その中にとても気になる言葉があったのですが、それは「価値のある文章」という文言です。端的に言ってしまいますと、「AIには価値のある文章は書けない」ということですが、弱者に寄り添う気持ちが強い僕としては、この「価値のある」という表現に敏感に反応してしまいました。
僕が「弱者に寄り添う気持ちが強い」のは、自分が脱サラをして失敗した経験が関係しています。一生懸命頑張ったのに「結果が得られなかった」という思いは僕の人生観を変えました。その僕からしますと、「価値のある、なし」を考えることに対して、優生思想につながるものを感じてしまいます。
「価値のあるもの」しか生きることが許されない社会。そのような社会は息苦しくて生きている意味が感じられなくなります。仮に「価値のある」優生な人だけが住んでいる社会があったとしても、時間の経過とともに必ず「価値のない」人が生まれます。なぜなら、「価値のある人」同士で競争が起きるからです。
ですので、世の中は常に「価値のある」人と「価値のない」人が混在しているのですが、その世の中を「価値のある人、ない人」と判断することにはなんの意味もありません。そのような世の中が平和で暮らしやすい社会になるはずがありません。社会はいろいろな人が分け隔てなく暮らしてこそ、人間が生きやすい世の中になります。
そのような社会で、エリート・優秀な人といった専門家が「価値のある、なし」を決めるのはナンセンスです。社会で生きているのはごくごく普通の人たちが大半で、そうした普通の人が本に感動して購入するのです。繰り返しますが、本を購入するのは見識がある専門家ではなく、ごくごく普通の人たちです。
そのような社会で見識のある専門家が「価値のある、なし」を決めることはとても危険です。僕がnoteというサイトを気に入っているのは、このサイトが「価値のある文章」かどうかを判断しないからです。素人であろうが下手であろうが、誰であろうが「誰でも」文章を発信することができます。
そもそも「価値のある、なし」を判断できると思っている見識のある専門家の方々が正しい判断をできるかは疑問です。プロ野球の世界ではスカウトが選んだ選手の中で大成するのはわずかな確率です。ほとんどのドラフト上位の選手たちは日の目を見ずに球界から消えていっています。見識のある専門家があてにならないことを証明しています。
出版業界においては編集者が「価値のある、なし」を決めるわけですが、それが絶対に正しいとは限りません。「価値のある、なし」は人それぞれによって違っているのが本来の姿でしょうし、仮に神が認めるような「真の価値」があったとしても、それを評価するのは世の中の大半を占める普通の人たちです。普通の人たちのほうが多い世の中で神が認める「真の価値」は何の意味も成しません。
だって、本当に「価値のわかる人」って、GACKTさんしかいないのですから。
じゃ、また