<気持の切り替え>

pressココロ上




今日は広島に原爆が投下された日ですが、正直な感想としては、昔ほどはマスコミなどでも取り上げなくなった感があります。直接原爆を投下された広島や長崎の人たちはともかく、一般の人の間では、特に被災地から遠く離れた東京近辺では、やはり関心は薄れているのではないでしょうか。

もう78年も前ですので仕方のない面もあるかもしれませんが、「過去に学ぶ」ことはずっと続けていくことは大切です。なにしろ人間は同じ過ちを繰り返す生き物です。原爆の被害状況を見ますと、その悲惨さに恐怖を感じ、「二度と原爆を使ってはいけない」と思いつつも、そうした強い思いがずっと続かないのも人間の特質です。どこか「他人事」のように考えている人も少なくないのが実際のところです。

僕には忘れられない会見があるのですが、それは沖縄県の玉城知事の会見です。正確な日にちは覚えていませんが、ウクライナがロシアからの侵攻を受け、ゼレンスキー大統領が世界に向かって支援のアピールをしていた頃です。当時ゼレンスキー大統領はいろいろな国の政治家と会ったり各国の議会に出席したりして頻繁にテレビに映っていました。そうした中、記者会見場に現れた玉城知事は、席に着くやマイクに向かって「ゼレンスキーです」とつい物まねをしてしまったのです。

その物まねがニュースにまでなりましたので僕も知ったわけですが、当然、不謹慎ですので批判を受け、もちろん玉城知事もすぐに謝罪の弁を述べました。ですが、その光景を見て僕が感じたのは「人間という生き物の心・気持ち」の移ろいやすさです。沖縄は日本で米軍と戦った唯一の場所ですので、戦争反対に対する強い思いを持っている人がたくさんいます。また、日本の米軍基地の75%を引き受けてもいる県です。つまり、そうした歴史を背負っている人たちは、本土の人よりも戦争に対して強い感性を持っているはずです。

そうした人々が暮らす県のトップの政治家が、今現在侵略を受け大変な状況の真っ最中にいる大統領の物まねを軽々しくしたことに驚きました。本来であるなら、ゼレンスキー大統領の気持が最もわかる日本の政治家であるはずの県知事がゼレンスキー大統領を揶揄と言っては言い過ぎかもしれませんが、軽んじたことになるのは間違いありません。

この発言で、玉城知事が心の中ではウクライナおよびゼレンスキー大統領の苦難の状況を他人事としか思っていないことが露わになりました。しかし批判ばかりするのもアレですので、玉城知事を擁護する立場から推測しますと、会見場に出るまで控室で親しいスタッフと雑談をしていたことは容易に想像がつきます。そうした中で、ウクライナやゼレンスキー大統領の話が出て、内輪だけの話で盛り上がった気持ちのまま会見に出た可能性があります。心の中が私的立場から公的立場に切り替わる前に、つい「口がすべった」のかもしれません。仮にそうだとしても、立場上絶対に言ってはいけない発言でした。気持ちの切り替えができていなかったことが一番の失敗要因です。

実は本日のコラムは「スマホを変えた話」をする予定で、冒頭の原爆の話は枕として導入部分にするつもりでした。しかし、気持ちが盛り上がってしまい気持ちを切り替えることができず、このまま戦争・終戦の話を続けることにします。気持の切り替えは容易ではありません。(笑)

僕は毎年この時期、「終戦日」の前後には必ず戦争に関するコラムを書いてきました。ところが昨年のコラムを読み返しますと、ここ数年は戦争に関連するコラムを書いていないことがわかりました。僕もほかの人に違わず「同じ気持ち」を持ち続けることができない人種のようです。

「戦争反対」の気持をコラムに込めるために、僕が一時期コラムに書いていたのは明石家さんまさん主演の「さとうきび畑の唄」というドラマです。平成15年度文化庁芸術祭大賞を受賞していますのでご存じの方も多いでしょう。この中で僕が忘れられないのは「明石家さんま」さんが最後に「私は人を殺すために生まれてきたんじゃない」と絶叫するセリフです。

このセリフほど戦争の悲惨さを伝える言葉はありません。戦争がはじまってしまいますと「人を殺す」ことを避けられなくなってしまいます。ですので、僕は「人を殺す」ことが義務となるまでの過程が重要で、その過程においてのみ戦争反対を実現させることができると思っていました。

具体的に書きますと、戦争がはじまって徴兵制でも敷かれようものならビッグモーターのようなブラック企業どころの話ではありません。パワハラありセクハラありの組織で生きることになります。上官の指示に逆らうことなどできないのは当然で、軍隊というところは「腕力がものをいう」世界です。弱者は虐げられ強いものだけが生き残る組織です。そうした軍隊が闊歩する世の中にしないことが重要と思っていました。

つまり、軍隊が強くなりすぎないようにすることが重要と考えていたのですが、ウクライナ侵攻を見ていますとそうとも言い切れない考えに変わってきました。それこそ若いころは「自衛隊は軍備か否か」とか「自衛隊は必要か」などという、いわゆるリベラルな考えに同調する部分もあったのですが、今は「強い軍備が必要」と思っています。

ノンポリ学生で遊びほうけていた僕が、大学の授業で最も印象に残っている言葉は、国際関係の授業で教授が発した言葉です。教授は「バランス オブ パワー」と話していました。「力の均衡で成し遂げられる平和」のことですが、確かに「一理ある」と思った記憶があります。しかし、「力の均衡」では片方が軍備を増強すると相対する側も合わせて増強することになってしまいます。これでは軍備が際限なく増強されるばかりです。

そこで軍縮の必要性が出てくるのですが、レーガン大統領とゴルバチョフ大統領の会談で冷戦が終了したときは本当に興奮しました。これで世の中から戦争がなくなると本気で思ったほどです。しかし、現実はそのようにはならず各地で紛争が噴出したのは皆さんご承知のとおりです。そして、昨年はとうとうロシアがウクライナ侵攻をはじめてしまいました。

このロシアによるウクライナ侵攻についても自らの不明を恥ずかしく思っているのですが、2014年にロシアがクリミア半島を強制的に併合したときのことがほとんど記憶にありません。本来ならそのときに、もっとウクライナとロシアの関係に関心を持っていなければいけなかったのでしょうが、悲しいかなそして恥ずかしながらその当時のウクライナ関連のニュースについてほとんど記憶がありません。言い訳をさせていただきますと、あまりに短期間で侵略・併合が完了したことで報道も少なかったのでは、と思います。その証拠にEUとりわけドイツはクリミア半島併合後もロシアとの関係を深めています。

僕は基本的に軍備増強反対派でしたが、今のウクライナの状況を見ていますと簡単にそうとも言い切れないものがあります。今の気持は「バランス オブ パワー」の考え方に傾いているのが実際のところで、気持ちの切り替えの重要性を考えている今日この頃です。

プーチン大統領が気持ちを切り替えてくれないかぁ…。

じゃ、また。




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