<若気の至り>

pressココロ上




先月の終わりに「ワイパー交換顛末記」というタイトルでコラムを書きましたが、交換に際してはネットで情報を探したことを記しました。ネットには情報があふれていますが、役に立つか、立たないか、は動画の作り方で変わってきます。もちろん、「役に立つ」動画を探すのですが、検索をかけても「役に立つ」動画が上位に出てくるとは限りません。

そこが面倒なところなのですが、ある程度時間をかけるならそれなりに「役に立つ」動画を見つけることができます。探しているときに思ったのですが、僕のサイトも検索で上位に入らないと多くの人に見てもらうことはできません。

少し前に書きましたが、僕のサイトは開設してから15~16年経っています。もしかしたなら、もう少し長いかもしれませんが、記憶が定かではありませんので、「まぁこのくらいかな」と思っています。その間、検索で上位に入っている期間が長かったのですが、さすがに4~5年前からは下位に沈むことが多くなっていました。

ところが、なぜか、最近また検索結果が復活していました。理由はわかりませんが、上位に復活することはうれしいことです。しかし、その喜びもつかの間で、最近はまた下位に沈むことが多くなってきました。世の中は甘くないということのようです。

僕のサイトは「脱サラ」について情報発信していますが、ここ数年は「脱サラ」といいますか「ビジネス関連」にあまり興味を感じなくなっています。サイトの更新は毎週行っていますが、更新しているのはビジネスとは関連性のないことをつづったコラムのほうが多くなっています。まさに今書いているこのコラムですが、そのときどきの社会情勢とか出来事、動向などについて自分の気持ちをつづっています。

簡単に言ってしまいますと、今時点でのビジネスのことも含めて世の中に対する自分の気持ちを発信するサイトになっています。自分的には、「今時点」というのが重要と思っています。「今時点」とは、「年をとった」という意味にほかなりませんが、例えばある一つの出来事や状況に対する思いも、今時点と昔の自分では異なったものになっています。今の自分から昔の自分を振り返りますと「恥ずかしい」とか「情けない」と思うことが多々あります。

もちろん、今と同じように昔も自分の判断や考えが間違っているなどとは思っていませんでした。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森会長が女性蔑視発言で辞任に追い込まれましたが、おそらく森氏にしてみますと、それほど「自分が悪い」とは思っていないはずです。昔の僕も同じで、当時はそのような感覚があることさえ気づかず生きていました。

浜田省吾さんというシンガーソングライターがいますが、その方の歌「君と歩いた道」には「若過ぎて思いやりもなく 傷つけ別れた人達」という歌詞があります。僕はこの歌を聴くたびに、昔の自分を反省しています。

「若気の至り」という言葉がありますが、この言葉にはどこか「若さを誇り気」にとらえている感があります。「若さゆえに」犯した過ちなので、勲章に近い感じさえします。中高年のおじさんが「昔のやんちゃぶり」を自慢げに語るのに似ています。しかし、「若気の至り」を受けたほうは、傷をかかえたまま生きています。

数年前から「#MeToo」運動が盛んになっており、セクハラは論外ですが、男女が平等でない社会に対して異議を訴える風潮が世界的に広がっています。今回の森会長の女性蔑視発言に敏感に反応したのもそうした流れを汲んだものだと思いますが、「女性を一段低くみる」思想は男性の、もしかしたなら一部の女性の間にも、心の奥底に植えつけられているように思います。

最近書店に行きますと、韓国社会における女性の地位、立場に対して若い女性が異を唱えている本を見かけます。映画でも同様のテーマの作品がありますが、韓国社会においても女性の社会的地位は問題になっているようです。

調べてみますと、女性の参政権が認められたのは、人類の長い歴史からみますとほんの最近のことです。ウィキペディアによりますと、世界初の女性参政権は1869年(アメリカ合衆国ワイオミング州)、日本全土においては1945年です。女性は長い間、投票する権利さえ与えられていませんでした。

今回森会長の発言でオリンピック憲章が注目されましたが、そこにわざわざ「あらゆる階層および組織において女性のスポーツ振興を強く奨励する」「男女平等の原則の完全実施を目指す」と書いてあるそうなのですが、「書いてある」ということは逆説的にいいますと現状では「男女が平等でない」ことを示していることになります。

昨年来、映画の世界では「鬼滅の刃」が長い間ランキング一位でしたが、その連覇を止めたのは「花束みたいな恋をした」というラブストーリーでした。予告編を観ますと、一位をとったのもうなづける感じがしました。僕がここ十年の間で一番好きなドラマは「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」なのですが、「花束みたいな…」は脚本が同じ人でした。

僕の推測では、「花束みたいな…」を観た人と「いつかこの恋…」を観た人は重なっているように思います。「いつかこの恋…」のような恋愛に飢えていた人たちがこぞって映画館に出かけて行ったのです。男性も女性も「ピュアの恋愛」に憧れていることの証です。

男女は平等かどうかに関係なく「恋をしたい」のです。どんな障害をも乗り越える力を「恋愛」は持っています。「ロミオとジュリエット」は死ぬことさえ厭わず、愛を貫いたではありませんか。

しかし、人間の性と申しましょうか。人は恋愛感情を長続きさせることができません。恋愛感情が薄れたあと、いろいろなズレが大きくなって「別れ」がやってきます。堅い表現をするなら「お互いの価値観の違いを感じた」ときです。その違いを感じることができなかったのは、まさに「若気の至り」です。

「酸いも甘いも経験している人」なら「違い」を感じることができるかもしれません。ですが、人生経験の少ない若い人にはその「違い」を見抜くことができません。「違い」に対してきつく当たるとき、相手を傷つけることになります。

誰しも「若気の至り」から逃れることはできません。最初から人間ができていたなら、反対に気持ち悪いではありませんか。それに、今回の森会長騒動を見ていてもわかるように、年をとっていようとも周りを傷つけることがあります。人は最後まで他人を傷つけながら生きていく生き物のようです。

最後に、「若気の至り」の対語は「老害」かなぁ…。

じゃ、また。







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