<諸説あり>

pressココロ上




3月に「関心麻痺」というタイトルでコラムを書きましたが、その中で映画評論家・町山智浩さんが紹介していた「関心領域」という映画について触れました。ナチスが虐殺を行っていたアウシュビッツ強制収容所の隣で平和な生活を送るナチスの幹部一家の日々の営みを描いた作品です。壁一つ隔てて、平和に優雅に暮らしている人と虐殺される人が共存いることに人間の持つ恐ろしさを思い至らせる映画です。人は関心の「ある」「なし」でいかようにも人間性を変えられるようです。

僕のお母ちゃんは3年か4年前に、92歳か93歳で他界しましたが、関心の「ある」「なし」で言動が変わってしまう人でした。そういう僕にしても、お母ちゃんが亡くなった「年」も「年齢」も正確には憶えていませんので、「この母にしてこの子あり」といったところでしょうか。恥ずかしながらお母ちゃんに関心がなかったことの証拠となってしまいましたが、そんな僕でもお葬式のときは涙が次から次へとあふれてきて止まりませんでした。僕の心も襞一つ隔てて「やさしさ」と「冷淡さ」が共存しているのかもしれません。

お母ちゃんの性格をわかりやすく説明しますと、自分が知っている人には徹底的にやさしく接するのですが、知らない人には「冷たく」とまではいいませんが、さほど「やさしくない」、いわゆる「ぶっきらぼう」な接し方をしていました。おそらく自分では悪気はないのでしょうが、結果的に「やさしくない」接し方をされた人は傷ついたり反感を抱いたりしていたと思います。

最近のニュースでは「富士山のコンビニ」でのオーバーツーリズムが報じられることが多いですが、こうした現象は世界的に起きているようです。昔から「旅の恥は掻き捨て」という言葉がありますが、普段の生活を離れて旅に出かけると羽目を外したくなるのは万国共通なのかもしれません。

僕はこうしたニュースを見るたびに、少しばかりひねくれた気分がもたげてきます。それはウクライナやガザでの悲惨な状況です。最近ではウクライナよりもガザの悲惨な状況が報じられることが多いのですが、「大けが」という表現では足りないほどの被害を受けている人や食べ物に困っているたくさんの人たちがいます。もちろん死者もたくさん出ていますが、そういう世界がある一方で観光地ではオーバーツーリズムが起きています。僕はそのことに違和感を持っていました。

そんなとき、僕がいつも聴いている町山さんのラジオ番組「アメリカ流れ者」の中で、MCの女性が「僕が関心を持ちそうな」エピソードを話していました。ネットではかなり炎上していたそうですからご存じの方もいるかもしれません。僕は結構な量のネットニュースを見ているほうだと思いますが、その炎上の件に関してはそのラジオ番組で聴くまで知りませんでした。

「僕が関心を持ちそうな」こととは、まさに「僕のようなおじさんの戯言」で、それが炎上の種になっていました。炎上の内容を簡単に説明しますと、朝日新聞の相談コーナーに50代の男性が相談した内容に対しての、野沢直子さんの回答が発端です。男性は「世界には悲惨な状況にある人がいる中で、平和に暮らしている自分の心の持ちよう」を相談していました。僕が「オーバーツーリズム」と「ウクライナやガザでの紛争」が同時に起きていることに持った違和感と同じです

それに対して野沢さんは「おそらく、あなたは今、とても幸せなのだと思います。人間とはないものねだりな生き物で、あまり幸せだと『心配の種』が欲しくなってくるのだと思います」と答え、世の中を嘆く前に「今自分が幸せなことに感謝して自分の周りにいる人たちを大切にしましょう」と回答していたそうです。

この回答がある人たちから批判され炎上したのですが、実は僕は「炎上」というものをあまり信用していません。僕は「炎上」って、「炎上させたい」と思っている人もしくはメディアが作り上げていると半分疑っています。以前より「コタツ記事」なるものも批判されていますが、「コタツ記事」も同じように思っています。「広げたい」と思っている人たちが意図的に記事にしている、と思っています。

先日、ある大学教授がテレビ番組の裏側について暴露した記事を読みました。その教授はテレビ制作会社から取材を受けたのですが、テレビ側が考えているストーリーに則ったコメントを求められたそうです。教授は「自分の考えとは違う」と断ったそうですが、その際に「『諸説あり』とテロップを流すから問題ない」とまで言われたそうです。バラエティー番組内で「諸説あり」と表示されていることを思い出しました。

YouTubeを見ていますと、途中でCMが出てきますが、その中には公共的なCMが流れてくることがあります。いわゆる生活弱者と言わる人たちの窮状を訴えるCMで、一見すると「公共」に見えますが、実際は民間が発しているCMです。僕からしますと、錯覚させるような作り方がすでに問題ですが、僕は最近ではこうしたCMも疑うようになっています。俗な表現をしますと、なんか「嘘くさい」と感じてしまうのです。同情心につけこんでいる、と言っては言い過ぎでしょうか。

お母ちゃんが知っている人にやさしくするのは、「自分がいい人に見られたい」というよりも純粋に「やさしくしたい気持ちが湧き出てくるから」だと思います。他人の目を意識できるほど賢くはないからです。よく言うと「ずる賢くない」のですが、だからこそ「知らない人にはやさしくしない」のも純粋な気持ちということになります。どちらも純粋な心です。

これまでに幾度か書いたことがありますが、僕がこれまでに最も感銘した言葉は「遠くにいる者ほどやさしくなれる」と「責任を負わなくていい人ほど正論を言う」言葉です。この2つの箴言は実はつながっていて、「遠くにいる人」は「責任を負わなくてもいい人」です。

これから夏を迎えますが、夏になるとよく出てくるのが「クーラーを使用することは生活保護の範囲内かどうか」という問題です。もし、受給者のクーラー代を一般市民が直接負担するとなりますと、一般市民は「遠くにいる」でも「責任を負わなくてもいい」関係ではなくなります。しかし、役所が決めることとなりますと一気に「遠く」の出来事で「無責任」でいられます。当然、「やさしく」なれますし「正論」も言うようになれます。「やさしく」するのもしないのも、また「正論」を言うのも言わないのも、どちらも同じ人の心の中です。

要は関心の持ちようです。持つ度合いです。生活保護受給の範囲を決めるのが役所であろうとも、関心を強く持つなら「どうでもいいや」とはなりません。弱者の気持ちに寄り添いながらも予算範囲についても配慮するようになります。「関心領域」のナチスの幹部にしても、ユダヤ人や強制収容所について関心を強く持っていたなら日々の過ごし方も変わっていたかもしれません。

ウクライナやガザにしても実際の状況はマスコミやSNSを通じてからしか情報を得ることはできません。これまでに幾度か書いていますが「戦争広告代理店」には世論の作り方の重要性が書いてありました。情報に関しては、AIが発達した今の時代は特に気をつける必要があります。

そうした環境にいるときは、ある一つの情報に傾注するのではなく、「諸説あり」くらいの気持ちで情報に接し、また自らの気持ちも「諸説あり」くらいにとどめておくほうが賢明です。

じゃ、また。




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