<スポーツマンシップ>

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昨晩はボクシング・世界ミドル級王座統一戦 ゲンナジー・ゴロフキンVS 村田諒太 戦を見たのですが、ゴロフキン選手の強さに圧倒されました。当初より、ゴロフキン選手の強さは報じられていましたが、実際に戦っている姿を見ますとやはり違います。このように言っては村田選手に失礼ですが、「格が違う」という印象を受けました。

そのような戦いぶりではありましたが、村田選手の奮闘は称賛ものです。会場に詰め掛けていたほとんどの人が同じ気持ちだったようで、負けた村田選手に大きな拍手が送られていました。途中で「村田コール」が起きたとき、僕はこみあげるものがありました。村田選手の人望もあると思いますが、敗戦という結果にもかかわず清々しい気持ちになったのは僕だけではないでしょう。

今回のタイトル戦であと一つ清々しい気持ちになったのは、対戦前のお互いの振る舞いです。どちらかと言いますと、世界戦を行うときは対決モードを盛り上げるために試合前の会見などではお互いをののしり合うことが多いのですが、今回はそうしたことが全くなく、両者ともリスペクト感が漂っていたのが好感でした。

村田選手からしますと、ずっと目標にしていたレジェンドですし、村田選手の性格からしてリスペクトするのはわかりますが、ゴロフキン選手が村田選手を見下すでもなく、横柄に振る舞うでもなく、紳士的に対応していたのが印象的でした。そうした対応は試合後も同様で、村田選手がインタビューを受けたあとに自らが着ていたガウンを村田選手に着せていましたが、その光景はスポーツマンシップを体現しているようで、とても感動的でした。

スポーツには「スポーツマンシップ」という言葉があるように、正々堂々とルールを守り戦い、競技相手への敬意を示す姿勢が求められます。ゴロフキン選手は今回まさにそうした姿勢を見せたのですが、僕が少しばかり気になったのは、ゴロフキン選手がカザフスタンというロシアの南に位置する国家の選手であることでした。

今回の世界戦をきっかけにゴロフキン選手の国籍であるカザフスタンという国について調べてみたところ、カザフスタンはソ連が崩壊したときに独立を果たした国でした。ソ連が崩壊した際は、民主化の方向へ向かった国と、ソ連時代の幹部がそのまま独立した国の上層部に横滑りした国に分かれたのですが、カザフスタンは後者、つまりソ連時代の幹部が国家の上層部を占めた国になったようです。

ソ連時代の幹部が横滑りして上層部を占めるということは、簡単に言ってしまいますと独裁国家の形態です。これも今回知ったのですが、カザフスタンではロシアがウクライナに侵攻する前の1月に暴動が起きたそうです。その理由は、液化石油ガスの価格が2倍になったことですが、それ以前に上層部の汚職などが国民の間に不満が鬱積していた背景があるようです。

今回のロシアのウクライナ侵攻は多くの国が非難していますが、ロシアと足並みをそろえている国もあります。マスコミでよく耳にするのはベラルーシですが、僕の想像ではカザフスタンも同じスタンスに立っているのではないか、と思っています。理由は、ベラルーシ同様、独裁国家の形態になっているからです。選挙を行った際に、70%以上の票を獲得する国は独裁国家と考えて差し支えないでしょう。世の中にはいろいろな考えの人がいるのですから、一人の政治家に70%もの票が集中する選挙が正常に行われたとは思えません。

今回のロシアのウクライナ侵攻に関して、僕は幾度か考えが変わっています。最初は「早めに降伏したほうが、一般の人の被害が少なくて済むかも」と考えていました。日本の特攻隊という若者の命を無駄にする無謀な攻撃が頭に浮かんだからです。しかし、その後いろいろな記事を読んでいきますと、考えが変わりました。一番の理由は、ウクライナという国家が過去にドイツとソ連という大国に蹂躙されてきた歴史があるからです。

最も衝撃的だったのは、前にも書きましたが歴史的大飢饉「ホロドモール」があったことです。これはスターリンがウクライナの穀物を強制的に徴収し輸出に回していたため、ウクライナの人たちは食べるものがなくなり起こった大飢饉でした。そうした過去がある国家に対して「早めに降伏」などと安易に書いたことを反省した次第です。

ウクライナのある市長は「奴隷になるくらいなら、死んだ方がまし」とツイッターしていますが、降伏するということは奴隷になることと同じです。なにしろ自分たちで作った食べ物を自分たちの自由にできず、無理やり剥奪され、食べるものがなくなるほど迫害されるのですから奴隷と変わりありません。そうした感覚が僕には欠けていたように思います。これも一種の「平和ボケ」かもしれません。緊急事態における感覚が培われていないことから出てきた「平和ボケ」ともいえそうです。

実はあと一つ、考えが変わったことがありまして、それは「平和ボケ」に関係するのですが、僕はこれまで「現在のような世界の安全が脅かされているときに、軍備に関する法律の変更を提議すること」の是非です。僕はこれまで「人は感情に影響を受けることが多い特質を持っているので、現在のような世界が軍事的に混沌としているときに、軍備のあり方を考えるべきではない」と考えていました。そうした心の状況では「正しい判断ができない」と思ったからです。

しかし、よくよく考えてみますと、反対のこともいえます。それは「平和なときに、防衛・軍備について的確な判断ができるはずがない」というものです。危険が身にせまっていないのですから、軍備について真剣に考えられるはずがありません。いわゆる「平和ボケ」になっているときに、「軍事的リスク・対応」について最適な考えをできるはずがないのです。

人間は頭の中で考えているときと、実際に自分の身に起きたときとで考え方が違うのは普通です。卑近な例で申し訳ありませんが、僕がラーメン店を営んでいたころ、若い店主である僕に、ラーメン店の運営の仕方について講義する中年サラリーマンの方がたまにいました。そうした人たちの意見は、ほとんどが実際のラーメン店を経験していないことから出てくる上っ面で見当違いな意見ばかりでした。

あと一つ例を挙げますと、以前、日弁連の副会長まで務めた方の奥様が逆恨みで殺害されるという事件がありました。その後、その方は「全国犯罪被害者の会」を設立するのですが、こうした一連の流れは、日弁連の副会長という一般的には弱者の側に立っている仕事をしている方でも、現実的には被害者の気持ちを本当の意味では理解していなかったことを示しています。やはり「経験に勝る知識なし」です。

このように経験はとても重要ですが、かといって人間はすべてのことを経験できるものではありません。それでもできるだけ「経験に近い」状況になることで経験に近づけることはできそうです。今回のロシアのウクライナ侵攻は、まさに緊急事態に近い感覚を持つのに適している状況です。こうしたときにこそ、緊急時における防衛・軍備について的確な判断ができるように思えるのです。

ですので、以前の僕は「国際関係が軍事的に不安定なときに、防衛・軍備の提議をするのは正しい対応ではない」と思っていましたが、「軍事的に不安定なときこそ、軍備について正しい考えができる」と変えてもいいのかなぁ、と思っている次第です。そのように考えていきますと、「自然災害においては、最悪の状況を想定しているのに、防衛・軍備については最悪の状況を想定しないのはおかしいのではないか」思ってしまいます。

あれ、いつの間にか、安倍さんみたいな保守的になっていた僕でした。でも、なにかあったらまたリベラルに戻るかもしれませんよ。なにしろ一つの考えに固まらないのが僕の長所ですから。僕的には「ヒューマンシップ」と思っているのですが…。

じゃ、また。




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