<今年もいろいろありました>

pressココロ上




 本来は来週が最後の更新日ですが、年末のため忙しく今週を今年最後のコラムとさせていただきます。
 今年もいろんな出来事がありました。食品業界の「偽」にまつわる事件、参院選の自民党惨敗、それに伴う安倍政権の退陣、福田首相誕生、金融業界のサブプライム問題などマスコミがネタに困る期間は全くなかったのではないでしょうか。
 そんな中でも僕が最も印象に残っているのは船場吉兆が開いた二度目の記者会見です。記者の質問に社長が詰まると会長である高齢の母親がヒソヒソ声で「答弁」を伝えていました。高齢である母親はマイクの性能がわかっていなかったのでしょうか、ヒソヒソ声はマイクが全て拾っていました。その光景はまるで「小学生の息子に小さな声でアドバイスをする母親」のようでした。せめて「世間の失笑を買った」という認識だけは持っていてほしいものです。
 船場吉兆の会見や北海道ミートコープ社社長の会見を見ていますと、企業という形態ではありながら個人商店の感覚で経営していた実態が表れたように思います。そしてもっと大事なことは、マスコミへの対応に慣れていなかったことです。そのことが事件を大きくしさらにはそれが他の会社及び業界に飛び火したように思います。
 僕の想像では、マスコミの人たちも取材対象がマスコミ対応に慣れているかどうかは扱い方法を決める判断材料にしているのではないでしょうか。マスコミ対応に慣れていない取材対象にはそれなりの対応をし、そして慣れている対象には厳しく対応しているように想像します。また対象が会見などで示す「その姿勢」によっても扱い方を変えているように思います。
 その意味ではミートコープ社社長の「その姿勢」は反感を買う姿勢でした。最初の会見には謙虚さが見られませんでしたのでマスコミの「より厳しい追求がなされた」のではないかと思います。もし、あの会見で社長が謙虚でしおらしい姿勢を見せていたならマスコミの追求もあそこまで厳しくはなく、そしてその後の「白い恋人」や「赤福」などの賞味期限違反も大きな報道にはならなかったと思います。返す返すもミートコープ社社長の「会見姿勢の誤り」が残念でなりません。
 深夜のドキュメント番組で大リーガーの松井秀喜選手を特集していました。その中で印象深かったのは松井選手とマスコミ関係者の「間合い」でした。松井選手は高校時代から注目を集めていましたのでマスコミの人たちとのつき合いも長いはずです。そうした経験から会得したものと思われますが、松井選手は「マスコミ関係者とのつき合い方のコツをわかっている」という印象を受けました。それは同時にマスコミ関係者に好意的に思われていることの証でもあります。
 マスコミ関係者との信頼関係があればこそ、報道「される」部分と「されない」部分の線引きがなされるはずです。マスコミでは「オフレコ発言」などとよく言われますが、「オフ」と「オン」の使い分けは大切なはずです。当然、最初は「オン」での対応でしかあり得ませんが、信頼関係が築かれるとともに「オフ」の割合も増えていきます。ミートコープ社の社長はその意識が欠けていました。信頼関係が構築できる前に「オフ」の感覚で会見に臨んだのですからマスコミ関係者に反感を買って当然でした。
 政治に関する本を読んでいましても、取材における「オン」と「オフ」の重要さについて書いてあることがあります。政治の世界は利害関係を調整する場ですから本音だけで話をすることはできません。公式な場では「オン」…つまり建前…で話し、本音はなかなか晒すことはありません。マスコミの人たちはその本音をいかにして聞きだすかが勝負のようです。「オフ」の発言の中から本音を探り出すのが仕事です。
 マスコミに対して「オン」と「オフ」の使い分けは難しいはずですが、若干16才でそれを身につけている印象を受けるのがハニカミ王子です。注目を集めた当初こそ「無理に笑顔にこだわっている」受け答えでしたが、すぐに修正されました。王子の周りに優れたアドバイザーがいることがうかがわれます。しかし、いくら優れたアドバイザーがいようともそれを実行するのは王子自身です。「オン」の連続を見事にこなしているさまはあっぱれとしかいいようがありません。ゴルフの技術といいマスコミ対応といい16才とは思えない素晴らしい対応ですが、それはやはり持って生まれた才能、天性が備わっていたのに違いありません。
 このように人間には持って生まれた才能というものがあります。才能が抜きん出ている人を天才と言いますが、やはりそれは一握りの人たちでしかありません。誰でもが天才バッターになれるわけではありませんしノーベル賞を取れるわけでもありません。大多数の人は平凡な才能しか持ち合わせていないものです。そして平凡な才能しか持ち合わせてない人たちで構成されているのが一般社会であり、学校です。
 その学校が少しずつ変化しようとしています。今では「ゆとり教育」を否定的に捉えるのが一般化しつつありますが、そんな状況の中、公立中学校が放課後に塾を開くそうです。この中学校はこのコラムでも以前取り上げたことがありますが、元リクルートのフェロー(とても偉い役職)まで上りつめた藤原氏が校長を務めている学校です。藤原氏はこれまでにも「よのなか科」を授業に取り入れたりしてマスコミにたびたび登場しています。
 僕は、藤原氏がマスコミに登場するたびに「公立学校を運営することの難しさ」を感じていました。僕が書籍やマスコミなどから得た情報で判断する限り、学校とくに公立学校は上司の意見がそのまま通る組織ではないようです。つまり学校という職場は上司である校長の考えに堂々と反発し非協力的な教師が多数存在する組織のようです。そのような職場環境で藤原氏は学校改革を成し遂げようとしているのですから一筋縄ではいかないはずです。藤原氏はリクルート在籍中から学校に関連する仕事もしていたようですから学校の実態も知っていたと思います。そのうえで校長を引き受けたのですから改革を実行する作戦を考えていたとしても不思議ではありません。マスコミに登場するのはその一環ではないか、と僕は想像していたのでした。
 それはともかく、公立学校と塾の提携というか連携というか形はどうであれ、学校が塾と関係を深めることに僕は疑問を感じています。義務教育ではない高校以上の学校では理解できますが、義務教育でありしかも公立である中学が塾を学校に取り入れることに対して不公平感が禁じえません。不平等感ではありません。不公平感です。
 僕は、義務教育の学校とは「子どもたちがいろいろな可能性を探る場」だと考えます。自分に備わっている才能を見つける場です。その場に塾だけを取り入れることは、その場が勉強だけに偏ることにつながる気がします。子どもの中には勉強に才能がある子もいれば、スポーツに才能がある子も、アート系に才能がある子もいるはずです。そうした場に塾だけを取り入れるのは勉強の才能がある子だけを特別扱いすることになります。もし学校に塾を取り入れるのなら同時にスポーツクラブやアート関連のカルチャースクールなども取り入れる必要があります。
 塾だけを取り入れる発想の根底には「勉強ができることが人間として一番最高」という意識が働いているような気がしてなりません。先ほど「学校は才能を発見する場」と書きましたが、同時に「特別な才能がないことを発見する場」でもあります。全ての人間に抜きん出た才能があるとは限りません。平凡な才能しか持ち合わせていない人間もたくさんいます。学校とはそうした人間でも社会という集団の中で生きて行く術を学ぶ場でもあるはずです。特別な才能がないことを自覚しながら集団の中で生きて行く術を身につけることも大切な経験です。平凡な人間にも生きる権利はあるのですから…。
 塾を学校に取り入れることを決めた背景には、藤原氏が東大出身であることが潜在意識として無意識に影響してるのかなぁ…。
 ビジネス関連の書物で「自己啓発」(注:自己発電ではありません)の重要性を説いている本は多いものです。その中の一文に「運は自分の努力で引き寄せる」と書いてありました。…でもそうは言ってもねぇ…。
 結局、今年も51回連続でハズれました。…ロト6。
 じゃ、また。
 来年もよろしく~。

紙.gif4コマ漫画
ジャーック!




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