<知らない世界の人>

pressココロ上




 アメリカの経済が危機に瀕しているようです。リーマンには公的資金が投入されずAIGには投入されたことに異議を唱える向きもあるようですが、バブル崩壊後の日本を見ているようです。世界経済はどうなってしまうのでしょう。
 また、日本では汚染米の広がりが心配です。マスコミ報道を見ていますとほとんどの米が汚染されている印象さえ持ってしまいますが、ある大きなできごとがあると一極端に偏ってしまうのがマスコミの傾向です。ここは一つ冷静に落ち着いた報道をしてくれることを望んでいます。
 新しい店に引越ししてからある程度の月数が経ち少しずつですが、常連のお客様もついてきていましてうれしいことです。そんなお客様のひとりに40才前後の男性がいます。パンチパーマにサングラス。ちょっと恐そうなお客様ですが、感じはよく定期的に買いに来てくれていました。
 そのお客様がしばらく来店していませんでした。ところが先日店の前に自転車に乗ったまま止まり話しかけてきました。
「おとうさん、しばらく買いにきてないけどごめんね」
 僕が「いいえ、とんでもない」と答えると
「実は、膵炎を患っちゃって医者から油モノは控えるように言われてるのよ」
 と言いました。それを聞き僕が
「そうだったんですか。大変ですね。じゃ、身体が元気になったらまたお願いします」
 と言うと、「膵炎が治ったらまた来るから」と笑顔で走り去って行きました。僕は男性のうしろ姿を見送りながらタクシー時代のことを思い出しました。
 タクシー乗務員になり数ヶ月が過ぎ仕事にも少しずつ慣れ始めそれなりに一生懸命やっていました。その頃僕は毎朝、営業所を出ると新宿に向かうようにしていました。これは先輩の真似をしたわけですが、新宿に向かう途中に「出勤途中」のお客様を拾う可能性があるからです。
 始めた当初、全くお客様を拾うことができず先輩に教えを乞うたところ「新宿とか渋谷とか繁華街に行かないとお客さんを拾えないよ」と教えられました。確かに新宿などに行くようになってから売上げは上がりました。また、新宿に向かって走っていると、出勤途中の会社員がタクシーを利用する確率が高いことも知りました。それ以来僕の営業所を出てからの足取りは新宿に向かいながらしかもお客さんが拾えそうな道を走ることとなりました。
 ある日、いつもと同じようにタクシーを走らせながら道路脇に目を凝らしていますと「いました」。お客さんが。数十メートル先で左手を上げて軽く手を振っています。「手を上げる」のは不思議でもなんでもありませんが、「手を振っている」お客さんはあまりいません。「ちょっと珍しい」と思いながら車を左に寄せスピードを緩めますと、男性の外見がはっきりとしてきました。パンチパーマにサングラスちょっと派手なシャツにセカンドバッグを持っていました。「ちょっと恐そう」です。
 賢い読者はお気づきでしょう。そうです。今週のコラムは冒頭のお客様の風貌からタクシー時代の思い出を書くことにしたのですね。
 タクシーを男性の前で止めドアを開けました。恐そうな男性は車に乗り込むと外見に似合わず明るい声で言いました。
「悪いけど戻ってくれますか?」
 僕は意味がわからず思わず「えっ?」と答えてしまいました。僕の答えがおかしかったらしく男性は少し微笑みながらやはり明るい声で言いました。
「営業所へ戻ってくれますか?」
 僕は上半身をうしろに向け男性の顔を見ながら尋ねました。
「営業所って私が今出てきたタクシー営業所ですか?」
「円山さん、葛城です」
 男性はサングラスを外しながら言いました。僕は男性の顔を見ました。見覚えのある顔です。「ちょっと恐そうな」男性は同じ営業所に勤める同僚でした。名前は知りませんでしたが、営業所で見かけたことはあります。男性が僕の名前を知っていたのは、平均年齢44~45才の運転手の中で20代の僕が目立っていたからでした。
「いやぁ、今日明け番で帰りなんだけど忘れ物しちゃって…」
 僕が葛城さんを乗せた場所は営業所からそれほど遠くないところです。それなのにわざわざタクシーに乗って戻るのが少し不思議でした。葛城さんは「忘れ物を取ってくるまで待っててほしい」と言い、営業所に小走りに入っていきました。
 葛城さんの要望により営業所から少し離れたところで待っていた僕のタクシーに数分後葛城さんはやはり小走りで戻ってきました。車に乗り込むと
「すみませんでした。じゃぁ、初台までお願いします」
 初台までの30分、葛城さんは自分の身の上話をしてくれました。たぶん、僕が新人でしかも葛城さんより年下で話しやすかったのでしょう。葛城さん自身もタクシー乗務員になってまだ1年ほどだそうで、営業所では親しくしている同僚がいないのも僕に気安く話しかけてきた理由のような気がします。
 葛城さんには奥さんと二人の娘さんがいるそうです。だいたいにおいて葛城さんのようなタイプの人の奥さんはちょっと派手で美人系が多いのが常です。僕が
「たぶん、奥さんってきれいなんでしょうね」
 と言うと
「まぁまぁかな…」と否定しないところが僕の推測が当たっている証拠です。
 また、葛城さんは僕にとって驚くことを話してくれました。それは、会社には内緒ですが、新宿のあるところでいわゆるカジノを経営していたのです。話によりますと、カジノの収入は1ヶ月に100万円以上はあるそうです。僕は率直に尋ねてみました。
「そんなに儲かってるのにどうしてタクシーなんかやるんですか?」
「まぁ…、いろいろあってさ」
 ここまで話したところでタクシーは葛城さんの目的地につきそれ以上の話を聞くことができませんでした。
「じゃ、頑張って…」
 お釣りを受け取らず葛城さんはマンションの中に入って行きました。葛城さんのうしろ姿を追いながらマンションを見上げますと瀟洒な煉瓦色の6階建てほどの概観でした。そのマンションを見ますと、葛城さんの話もまんざらホラでもないような気がします。
 それ以来、葛城さんとは営業所で会うたびに軽く挨拶をするようになりました。しかしそれ以上の親しさにはならず一定の距離を置いた同僚といった感じです。僕としても葛城さんの話をどこまで信じてよいのか、また本当だとしたら「危ない」人にも思えたのでそれくらいの関係が無難なように思っていました。
 それから数週間後、朝いつものように営業所を出て走っていますとまた葛城さんらしき人が手を上げていました。前回のことがありましたので遠くから見ただけで葛城さんを連想することができたのです。近づくとやはり葛城さんです。
「おはようございます。また初台までお願いします」
 前回はたまたま偶然に僕のタクシーに乗ったのかもしれませんが、今回は間違いなく僕のタクシーを狙って乗ってきたように思いました。僕は心の中で少し身構えました。なにか目的があるのかも…。
 走ってしばらくすると葛城さんは話し出しました。
「丸山さん、俺来週で辞めるから挨拶をしようと思って…」
 やはり僕を狙ってタクシーに乗ったのでした。しかしその理由が「退職の挨拶」と聞いて気持ちはリラックスすることができました。そうした気持ちが僕に前回の続きを聞く勇気をくれました。
「どうしてカジノで収入がたくさんあるのにタクシーやったんですか?」
 葛城さんの話は僕の世の中の知識を広げさせてくれました。
 葛城さんはカジノで莫大な収入を得ているのですが、カジノは違法だそうです。そうしますと新宿という土地柄もあるのでしょう。いわゆるショバ代というものを暴力団に支払わなければならないのでした。そのショバ代が馬鹿にならないほどの金額だったそうです。しかもそのうえに「車がほしい」などと定期的に要求されるのが普通だったそうです。
 こうした話をする葛城さんの声はどことなく辛そうで疲れていそうでそして投げやりな感じがしていました。葛城さんはそんな生活が嫌になりカジノを廃業するつもりでタクシー乗務員になったのでした。それ以上の詳しい話は聞けませんでしたが、最終的には奥さんの実家のほうに「引っ越すことにした」と話していました。
 一般的に、違法な世界は莫大な収入が見込めますがやはりその世界にはその世界の難しさがあるようです。世の中は簡単には莫大な収入が得られるほど甘くはありません。
 翌週、出庫の準備をしていますと仕事を終えた葛城さんが近づいてきました。
「今日で最後なんだ。いろいろありがとうね。それじゃ」
 僕もお礼を言い、うしろ姿を見送っていると親しくしているベテランの人が話しかけてきました。
「あいつと親しかったの? あいつ変わってる奴だったよな」
 世の中には自分の知らないいろいろな世界があります。
 ところで…。
 僕がタクシー乗務員になろうと思ったのは、今は難しいようですが、当時はそれなりの収入が稼げたからです。それとともに「ラーメン屋に失敗」しても二種免許の資格があればまた「タクシーに戻れる」という思いでした。
 そんな僕でしたが、タクシーを辞める最後の日に僕が所属している班とは違う班の主任に言われた言葉が忘れられません。
 その主任は僕が最終勤務日の最後に納金をして立ち去ろうとしたとき僕を呼び止めました。もちろん同じ所内にいるのですから顔は知っていますが、班が違いますので話したことはほとんどありません。50才前後のお腹の出た頭が少し薄くなった主任は僕を見つめてこう語りかけてきました。
「円山君、もう二度とこの世界に戻ってきちゃ駄目だよ」
 じゃ、また。…といつもならこれで終わるのですが、今回はちょっと解説をしようかと思います。
「二度と戻ってきちゃ駄目だよ」という言葉には僕に対する励ましの意味があります。
 最近はどうかわかりませんが、当時はタクシー業界の人たちがタクシー業界を離れたあと、またすぐに戻ってくる例がとても多かったのです。タクシーは営業所を出てしまえばひとりで仕事ができますのである意味気楽です。人間関係に惑わされることなく自分のペースで働けます。ですので一度タクシーを経験した人は、ほかの業界に転職したあとも「ちょっと嫌なこと」があるとすぐにタクシーに戻ってきてしまうのでした。
 この主任はこうした例をたくさん見てきていたので僕に「簡単にあきらめてタクシーに戻ろう」なんて思ってはいけない、と諭したのでした。僕はこの主任の言葉と顔は一生忘れないでしょう…。
 じゃ、じゃ、また。




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