<心の差別>

pressココロ上




 僕の店は辺鄙なところに立地していますので店の前を通る人はわずかしかいません。そうしますと、意識をしなくともいつの間にか通行人の顔をほとんど覚えてしまいます。
「あの人、今日はいつもより出勤が早いなぁ」とか
「なんかあの人、今日は疲れて帰ってきたなぁ」とか
「あれ? いつより歩き方が早いなぁ」
 などと一人勝手に感想を抱いています。
 ある日の若いお母さん。
 反対側車線をいつものように自転車の後部座席に2~3才の女の子を乗せて走っていました。いつもと違うのは子供が大きな声で泣き叫んでいることでした。お母さんの表情もいつもと違い険しい顔をしていました。自転車はゆっくりと走っていましたが、ちょうど店の前あたりで止まりました。そしてお母さんがうしろの子供をなにやら叱りつけています。子供はさらに大きな声で泣き出しました。するとお母さんはさらに強い口調で怒鳴りました。
 しばらくするとお母さんは怒った表情のまま自転車をUターンをさせ、またゆっくりと走り出しました。そして少し走ったかと思うと急に止まりそして振り向きざまに子供の頭を叩いたのです。僕は驚きです。そのようなことをする感じのお母さんではなかったからです。当然子供はさらに泣き叫びました。もちろん親子の会話内容は聞こえませんので理由はわかりません。それでも子供が余程のわがままを言ったのは想像できます。それにしても子供を叩くのはいただけません。しかも叩いたところが頭ですから場合によっては大きな損傷につながることもあります。お母さんは感情的になって叩いてはいけません。子供に心の傷を残すことにもなります。
 しかし、翌日その親子が仲良く手をつないで歩いていました。子供もお母さんに笑顔で話しかけています。親子の絆は傍からではわからないものがあります。特に母親は自分の身体を痛めて産んでいますのでその絆は父親にはわからない濃さがあります。どんなに感情的になって怒ろうが、そして子供の側からすると「怒られよう」がそれでも切れない母子の絆には強いものがあります。父親からすると尊敬に値する関係です。
 そのような光景を見た数日後、悲しい事件の報道がありました。母親が子育てを放棄し死なせた事件です。自分の「遊ぶ時間が欲しい」がために6才の長男に下の2才になる赤ちゃんの世話を押しつけていました。6才の子供に赤ちゃんの世話がどれほどできるでしょう。それでも長男が「ちゃんとできなかった自分が全て悪い」と話していた、という警察の発表は涙を誘います。この長男もどれほど母親を好いていたことでしょう。それを思うとき母親の無責任さがより強く責められて当然です。
 このような母親は特別な事例です。ほとんどのお母さん方は子供に対する愛情に溢れています。どんなに怒ろうが怒鳴ろうが叩こうが子供に対する愛情がなくなることはありません。それは心の底から子供を愛しているからです。
 違う日のニュース。
 ガソリンスタンドでアルバイトをしていた青年が解雇の撤回を求め実力行使をしているニュースが報道されていました。青年は結局労働審判まで進みそして勝利を得ました。そして幾ばくかのお金を得たようです。番組ではその出来事についての感想メールを紹介していました。それらの中で僕が少しばかり驚いたのはこの青年を「支持する」「支持しない」の割合です。「支持する4割」「支持しない6割」」で「支持しない」ほうが多かったのです。たぶん、僕の想像ではそのニュース番組の傾向からいって「支持する」人が多いことを前提に取り上げたのではないか、と思います。ところが反対の結果でした。大まかに言うと「支持する」人は中高年で「支持しない」人は若者が多いとのことでした。その中で気になったのが次の「支持しない」若者の意見です。
「この青年は本当に骨がボロボロになるまで働いているのか?」
 僕はこの意見を聞いて小骨が喉に引っかかるように、なにかが心の中にひっかかりました。
 この意見には「ボロボロになるまで働かない」から青年が解雇されるのは仕方がない。そしてその裏には「自分はボロボロになるまで働いている」という心理が透けて見えます。
 僕はこの意見の中に現在問題になっている「格差社会」の源があるように感じました。つまり今の若者は「格差社会を肯定している」人が多いように感じられたのです。でも、僕は格差社会を否定します。
 僕は「努力したものが報われるのが正しい社会」と思っていますので市場競争に賛成です。必死に頑張った人と普通に頑張った人が同じ待遇では頑張った甲斐がないというものです。だからと言って「普通にしか頑張らなかった人」が否定されるのは好みません。そもそも「必死に頑張ったかどうか」は他人にはわかるものではありません。本人にしかわかりません。いえ、本人にさえわからないこともあります。唯一誰からもわかるのは勝利者になった人だけです。勝利者だけが「必死に頑張った」と認められます。
 一般にエリートと言われる高級官僚は勝利者の象徴です。小さい頃から受験戦争に勝ち続けてきた人たちです。「必死に頑張って」勉強してきた結果が高級官僚であり、そして誰からも認められています。そしてこうした人たちは「普通に頑張った人とは違う」と思っています。なにが「違う」かと言えば「努力」であり「能力」です。そこには「普通の人」に対する「差別」の臭いがします。
 「差別」する心がなければ「業者から賄賂をもらったり」「政府機関に天下ったり」はできません。「自分は普通の人とは違う」と思っているからこそできる行動です。
 そして「格差社会」は「差別する心」から生まれます。今、たまたま高級官僚を批判しましたが、実はこれは私たち普通の人にも言えることです。自分たちより弱い者を差別しています。先ほどの解雇された青年に対する「意見」も同様です。アルバイトは正社員より弱者です。「必死に頑張ってきた」人が「普通に頑張ってきた」人を差別するように、「普通に頑張ってきた」人は「自分より弱い者」を差別します。表面上は差別をしませんが、そこには「心の差別」があります。例えば、ハンセン病の人たちに対する社会の対応は「心の差別」の最たるものです。
 先ほど紹介しましたアルバイトの青年に対する「身体がボロボロになるまで働いていたのか?」という意見に僕がひっかかたのはそこに「心の差別」を感じたからです。
 一般に市場競争は勝ち組と負け組を作ったと言われます。しかし、市場競争の本来の目的の1つは公平な社会を作ることです。市場競争のない社会はある特別な人や組織だけが得をするシステムになっていました。それを誰でもが参加でき挑戦できる社会にすることが市場競争のあり方です。その目標は公平な社会になることです。格差社会が公平であるはずがありません。そして格差社会をなくすためにはその大元である「心の差別」をなくすことから始めなければなりません。
 ところで…。
 世の中のほとんどのお母さん方は子供に対して心の底から愛情を持っていますが、それは僕のあの妻でさえそうです。僕にはきつく接しても子供たちには優しく接します。その傾向は子供が小さかった頃から成人した今になっても全く変化はありません。話し方一つとっても同様です。子供たちには優しい口調で話します。例えて言うと、そうですねぇ…、バカボンのお母さんがバカボンに話すときのような優しい声です。それに比べて僕には「刺々しい」声で話します。
 前に一度「子供と僕を差別するのはよくない」と話したことがありますが、妻は「差別はしてない」と「差別」を認めませんでした。そうなのです。「心の差別」は本人にはわからないことが多いのです。
 それ以来、僕はずっと思っています。もし今度生まれ変わったら僕は「妻の子供」として生まれたい…。
 でもそうすると一つ問題があるんですよねぇ。僕が「妻の子供」として生まれたなら僕の父親はいったい誰なんでしょう…。
 じゃ、また。




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