<手作り>

pressココロ上




 経営学者のドラッカー氏によれば19世紀の一番大きな進歩は肉体労働の「労働生産性が飛躍的に高まったこと」だそうです。約50倍も高くなったそうです。そして21世紀は知識労働者の労働生産性を同じくらい高める必要がある、とのことでした。前に読んだ本なので記憶が確かではありませんが、ドラッカー氏の「明日を支配するもの」にこのようなことが書いてありました。
 19世紀に肉体労働の労働生産性が高まった理由は産業革命です。機械化が進んだことによりそれまで人の手によって長時間かかって作られていた織物などが短時間で作られるようになりました。50倍と言いますと、50時間かかっていた仕事が1時間でできるようになることです。これによってなにが変わったか? と言えばそれは「商品の価格」です。もちろん安くなります。
 商品の価格が安くなることによってなにが変わるか? と言えばそれは「普通の人々への普及」です。それまで一部の裕福な人にしか買うことができなかった商品が普通の人々でも買えるようになるからです。機械化は普通の人々の生活を豊かにし快適にします。「明日を支配する」の本の中には「綿」が例として書かれていました。かつて「綿」は手作業によって作られていましたので高級品でした。しかし、綿を作る機械が発明されたことにより労働生産性が上がり安価なものになり普通の人たちの間に広がりました。また、生産性の向上により働いている人たちの賃金も高くなりました。このように機械化は社会に貢献します。しかし、機械化より手作りのほうが価値があるように感じる人もいます。
 新しくお店をオープンしますとお店の側からするとと嫌がらせとしか思えないようなお客様が来ます。これは新規オープンの宿命ですので仕方ありませんが、それでもやはり気分のいいものではありません。
 当店の場合ですと、買うときに「ここのは手作りなの?」と聞いてくるお客様がいました。僕が「手作りではない」ことを伝えると、おもむろに「そうだと思ったのよね。おかしいと思った」とか「それじゃ冷凍モノを買って自分で揚げたほうがいいじゃない」などと見下した表情で捨て台詞を吐いて帰って行くお客様です。
 私が目指すお店は「誰でもが気安く買える店」ですので価格帯も自ずと決まってきます。高価格でない値ごろ感が感じられるような価格です。そして「値ごろ感のある価格」は「手作り」では実現できません。機械化されてこその「値ごろ感のある価格」です。もし、「手作り」と名打ってそのうえ「値ごろ感のある価格」で販売している商品があったなら疑ってみたほうがよいでしょう。現実的ではありません。
 僕はラーメン店時代、途中から自家製麺に切り替えました。テキストお読みの方はご存知でしょうが、製麺機を導入して麺を作っていました。これは「手作り」ではありませんが、それでも手間と時間を要しました。そしてそれが実現できたのは従業員ががいたからです。もし、ひとりで切り盛りしているお店で自家製麺を行うなら営業時間を減らすしか方法はありません。しかし、ラーメン店はお店を開けてこそ売上げができます。これでは本末転倒になってしまいます。
 製麺機を導入しての自家製麺であっても時間がかかりますが、これを手打ち麺とするとさらに時間がかかります。ドラッカー氏の本に書いてありました「綿」と同様に手作業による製造は高価格となります。つまりかなり高価な「麺」となり、ラーメンも高価格の設定にせざるを得ません。誰でもが気安く食べるラーメンとは言えなくなってしまいます。
 このように「手作り」とはかなり高価格な商品を作ることにつながり普通の人たちには不向きな商品となります。それでは普通の人たちが気安く手に入れるためには全てを機械化すればよいか、というとそうでもありません。機械化にしてもよい範囲があります。
 だいぶ以前、夜遅くに妻とラーメンを食べに行きました。その店は鹿児島のラーメンを専門に扱っているようでスープが一般の店とは異なり特徴があるようでした。店内に入り注文をすると40才代の男性がラーメンを作り始めました。麺を茹麺機に入れると茹麺機の正面にあるボタンのスイッチを押しました。次にドンブリを取り出しタレや調味料らしきものを入れると水道の蛇口の下に置きました。そして蛇口の側にあるスイッチを入れるとなんと蛇口から沸騰したスープが出てきたのです。僕は思わず驚き妻と顔を見合わせました。このようなやり方には後にも先にも出合ったことがありません。
 しらばくすると茹麺機から合図の音がし男性は麺をあげました。つまりこの店はラーメンを作るという作業さえ機械化しているのでした。しかし、見ているほうとしては味気ないものに感じてしまいます。
 数週間前、経済誌に「回転寿司が好調」と書いてありました。寿司が安く食べられるのですから売上げが好調なのもうなづけます。「安く」提供できる理由は機械化にあります。お寿司を作る機械、寿司ロボットを導入しているからです。これにより人件費が削減され一皿100円~150円の価格を設定することが可能になっています。
 しかし、もし寿司ロボットが作っているところを見せられたとしたらどうでしょう。いくら安いとはいえ食べるほうとしては興ざめしてしまいます。寿司ロボットは奥に隠されていてこそ威力を発揮します。経営者は機械化をする範囲を慎重に見極めなければなりません。それを誤らなければ機械化は社会に貢献します。一部の裕福な人だけが食べられたり利用できる状況は僕は好きではありません。普通の人々が食べられたり利用できてこそその商売は価値があります。
 機械化は労働生産性を向上させ商品の価格を下げ働いている人たちの賃金も高くしますが、問題点もあります。それは働く場の消失です。機械化により働く人の人数が少なくて済むからです。しかしこれは時代の変化ですから受け入れざるを得ないような気がしています。テキストにも書いてありますドラッカー氏の言葉
「変化はコントロールできない。できるのは先頭に立つことだけだ」
は核心をついています。変化を無視していては時代に取り残され生きていくことさえ困難になってしまいます。それはわかっているのですが、僕としてはできたら「先頭でなく真ん中あたりにいても普通の生活ができる」ような社会になってくれることを願っています。
 
 ところで…。
 先週、福田首相があっさりと辞任してしまいました。本人は熟慮に熟慮を重ね「あっさり」ではないと思っているでしょうが、国民から見るとやはり「あっさり」と映ってしまいます。
 僕は「福田首相辞任」のニュースを聞いて真っ先に思ったことは「また官僚になめられる」ということでした。数年前、ある事務次官が会見で話していたことを思い出します。
「行政は継続だ」
 どんなことが起ころうが行政が中断してしまっては国民生活が麻痺してしまいます。例え総理大臣が辞任しようが政治家が辞任しようが国民が普通に生活できるのは「官僚がしっかりしているからだ」というアピールを存外に示したように僕には感じられました。
 今までにも「官僚に言われるがままにコントロールされている」と感じられる大臣がいたことも確かですのである意味では正当なアピールでもあります。しかし、官僚は選挙によって選ばれたわけでも政治家が選んだわけでもありません。そのような官僚が国を動かす姿は正しい国家運営とは言えません。国は国民によって選ばれた政治家がコントロールすのが本来の姿のはずです。早く政治家がコントロールする世の中になってほしいものです。
 それにしても、福田首相は1ヶ月前に自分の「手作り」の内閣を作ったばかりなのに投げ出すなんて…。「手作り」が一部の人たちのためだけにあることの証明となりました。
 じゃ、また




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする