<教訓>

pressココロ上




 ある日の午後、18才くらいの青年が買いにきました。注文をして商品を受け取ったあと、ちょっとはにかみながら僕に質問をしてきました。
「どうしてこの仕事をはじめたんですか?」
 小さなお店を営んでいますと、たまにこういった質問を受けることがあります。そうしたとき、僕は質問をする人の気持ちというか意図を想像します。こういう質問をする人の気持ちを大まかに分けますと、「純粋な気持ち」と「邪心な気持ち」があります。「純粋な気持ち」とは、素直に「なんでだろ?」という疑問の気持ちです。「邪心な気持ち」とは、心のどこかに「こんなちっぽけなお店で儲かるわけないだろ」といった小バカにした気持ちが入り混じった見下した気持ちです。この青年の質問は前者のほうに感じました。僕は答えました。
「儲けが少なくて、庶民的なお店をやりたかったんですよ」
 青年は、「わかったようなわからないような」表情で「そうなんですか」と僕に返しました。そして言葉を続けました。
「僕、今度大学生になるんですけど、今近くの○○というファミレスでバイトしてるんです」
 僕も返しました。
「それはいいバイトですね。飲食業で働くと社会のいろいろな面が見えてきっといい勉強になりますよ。是非、学生生活をがんばってください」
「ありがとうございます」
 青年はお礼を述べて帰っていきました。
 この青年は、自分が「大きなレストランで働いている」中で、僕のようなお店が不思議に思えたのかもしれません。もしかしたら、バイト先の先輩か上司から、「僕のお店についての否定的な感想」を聞いていた可能性もあります。そうした話を聞いていた青年が純粋な気持ちで僕に直接聞いてみたくなったように想像します。
 僕のお店には、大学生がよく買いに来ます。そうした学生さんたちに話を聞くと、やはり就職戦線はかなり厳しいようで、わざと留年の選択をした人や大学院に進む選択をした人も多いようです。
 先日買いに来た学生さんは今年3年生になるらしいのですが、もう今から大学院に進むことを念頭に入れていました。理由を尋ねますと、やはり「今の時代が就職に厳しい」からでした。
 このように「就職冬の時代」であることを理由に大学卒業を回避する学生さんはかなりいるようです。しかし、僕は疑問に思っています。就職を先延ばしにしたとしても延ばした先で就職戦線が和らいでいる確率がそれほど高いとは思えないからです。先延ばしにした先でも当然のごとく新しい卒業生が生まれているわけですから就職戦線が緩和されるとは思えません。たぶん、企業側にしてみても卒業を先延ばしにした学生より新鮮な卒業生を採用する傾向が強いのではないでしょうか。僕が採用担当者ならそう考えます。
 2月ごろに買いに来た学生さんはもうすぐ卒業しなければならない4年生でした。その学生さんは当店で一番安い品物を買ったのですが、そのときの台詞が
「まだ就職が決まらないので高いのが買えないんですよ。すみません」
 というものでした。そのときの話ぶりが落ち込んでいるふうでもなかったので、僕は思わず笑いながら言葉を返しました。
「じゃぁ、就職が決まったら一番高いのを買ってくださいね」
 先月の終わり、その学生さんが買いに来ました。そして一番高い品物を買って行きました。…よかった、よかった。
 数年前から新社会人が「3年以内に退職すること」が話題になっていますが、別にこの現象はそれほど驚くことでも、悲観することでもなさそうです。以前読んだ本によりますと、もう既に10年以上前からこうした現象は起きていたそうです。ですから、今に始まったことではありません。もし、3年以内で退職することになっても自分に落胆する必要はありません。新しい転地でがんばればよいのです。
 世の中には、教訓を垂れた本や教訓を垂れたがるオジさんがたくさんいます。そうした教訓はときに、全く正反対の意見を言っていることがあります。例えば、「どんなに苦しくともそれを乗り越えることが人生にとって大切だ」とか、また反対に「自分に合わないと思ったら次のステップにすぐに進むべきだ」など、教訓を垂れる人の人生観で言うことは違います。僕は、どちらも正解だと思っています。
 僕は、いろいろなたくさんの人の人生本を読んでいるほうだと思いますが、それらを読んだ感想として、物事に対する考え方は本当に人それぞれだと感じています。成功した人たちの人生本を読んでいても、全く正反対の意見がありますし、失敗した人たちの中でも同様です。つまり、個人個人によって考える教訓が違っているのです。ですから、若い方は「自分に合う」教訓を垂れている人や本の意見を参考にすればよいと思います。
 僕は、子供の頃に読んだ本を大人になって読み返したときに、子供の頃に感じたのとは違う感想を持ったことがあります。たぶん、読者の皆さんの中にも同じような経験をした人はいるでしょう。これは子供のときまでに経験したことと大人になるまでに経験したこととの量的、質的な違いです。同じように「ためになる教訓」もそれを読んだとき聞いたときの、その時点でのその人の人間的土壌によって心に響くときと響かないときがあります。
 例えば、本などを読み人生に役立つ教訓に接したとき、本当はその人に「適している教訓」であっても、当人の中にそれを受け入れるだけの土壌が育っていないなら「適していない教訓」と感じてしまうこともありえます。こればかりは土壌を育てるだけの期間、経験がどうしても必要です。このように考えますと、ちょっと合わないからといってすぐに退職するのはもったいないかもしれません。せめて、自分の糧となる体験になるまでの期間は辛抱して続けていたほうが自分の土壌を培うことになると思います。
 ある仕事に従事して半年しか経験していない場合と3年経験した場合ではその人の土壌は全く違ったものになっています。半年ではほとんど土壌を培ったとはいえないのではないでしょうか。
 本当に自分に適した教訓に出会うためにも自分自身の土壌を豊かにすることを心がけましょう。ただ難しい問題がありまして、自分の土壌がどれほど豊かになっているかは凡人には中々わかりにくいのです。
 新年度がはじまりました。新しい環境に変わった人も多いでしょう。皆さんが、よい上司に恵まれ、理解のある先輩に出会い、気の合う同僚に囲まれることを願っています。
 最後に、幻冬社の社長・見城 徹氏の言葉を紹介します。
「人間は、経験した範囲でしか理解できない」
 ところで…。
 足利事件における冤罪について最高検が検証結果を発表しました。僕は不満です。一番引っかかったのは「自白の偽装を見抜けなかった」というくだりです。
 事件当時の検察官と菅家さんのやりとりを読む限り、菅家さんは「偽装をした」のではなく「偽装をさせられた」のです。にも関わらず、あたかも菅家さん自身の意志で「偽装した」ように検証しているのは不満です。このような検証結果では菅家さんは納得できないでしょう。
 本当に足利事件を冤罪として教訓にするなら、最初にすべきことは事実に真正面から向き合うことです。それなくして真の教訓など得られないでしょう。この検証結果を読みますと、まるで「菅家さんが検察官を騙そうとしたのを見抜けなかった」かのような印象を与えます。しかし、検察官が菅谷さんに「事実と違うことを自白させようとした」のが実態です。
 この検証結果の根底には「検察官は被害者である」と結論付けようとする意図が透けて見えます。つまり、検察官が菅家さんに嘘をつかれたのを見抜けなかったという構図です。しかし、冤罪の実体は検察官は被害者ではなく加害者であることです。このような検証しかできないのであれば、いつまでたって冤罪をなくすことなどできないでしょう。
 なぜ、検察が「加害者であること」を認めないか、と言えばそれはエリートのプライドが邪魔をしているからでしょう。それまでの人生において競争に勝ちつづけた経験しか持ちあわせていない検察官であることが大元の原因です。しかし、それでは菅家さんに償うことなどできません。
 足利事件を検証し教訓にしようにも、検察官にその教訓を受け入れるだけの土壌が培われていないなら教訓になりようがありません。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする