<善>

pressココロ上




 春休みも終わり新学期が始まりました。学生さんは楽しいお休みが終わりがっかりしていることでしょう。なんと言っても春休みは宿題がありませんから、思いっきり遊べたのではないでしょうか。
 そんな春休みに僕が遭遇した心優しい小学生のお話を…。
 春休みのある日、小学4、5年生くらいの男の子が4人で買いに来ました。その中のひとりはなんどか買いに来たことがある子供で、その子が友だちを連れて来た感じです。
 まず、経験者である子供が注文し、そして次の子が注文しました。そのとき、まだ注文していない子のひとりがメニューを見ながら「ローソンのほうが安いよ」と小さな声で言いました。「小さな声」ですが、僕にも聞こえるほどの大きさです。そのとき経験者である子が声を発した子に、小さな声で囁きました。
「おい、こんなとこでそんなこと言うなよ」
 言われた子はちょっとバツの悪そうな表情をして僕の顔をチラッと見ました。それから、声を発した子も注文し、残りのひとりも注文し、全員が買ってから「公園で食べようか」と言いつつ店の前を去って行きました。
 翌日、また同じメンバーが揃って買いに来ました。昨日と同じように経験者から注文をしたのですが、そのとき昨日「ローソンのほうが…」と言った子が僕に聞こえるくらいの声でこう言ったのです。
「ここ、安いよな。それにローソンにないのもあるし」
 その子は、ほかの子が注文している間もずっと「安い」という言葉をなんども口にしていたのです。僕は思いました。この子は「昨日の罪滅ぼし」をしている。
 なんと心優しい少年たちでしょう。たぶん、公園で食べながらいろいろと考えた末の行動ではないでしょうか。言葉を発するTPOを教えた少年も偉いですが、それを素直に受け入れた少年も素晴らしいです。まだ、子供ですから「自分の言葉が他人に嫌な思いをさせる」という感覚がなくても当然です。ですから、つい正直な気持ちが口から出てしまったのでしょう。僕など、子供の頃は典型的なおっちょこちょいでしたから周りに気遣うことなど全く考えてもいませんでした。
 僕が高校生の頃、小学生ではありません、もう半分大人になりかかっている高校生です。当時、僕はクラブ活動に熱中していましたが、そのクラブの帰りに必ず同期で揃ってラーメンを食べに行っていました。
 ある日、いつものようにラーメンを食べたあと、理由はわかりませんが、僕はお腹が痛くなってしまいました。そのとき僕は深く考えることもなく「お腹が痛いなぁ」という言葉を出していました。しかも一度ではなくなんどか発していました。すると、隣の席に座っていたサトウが僕の横腹を肘で小突くのです。僕はサトウを見ました。サトウは小声で僕に言いました。
「おい、今そんなこと言うな」
 僕はサトウにたしなめられて初めて「自分の言葉がその場所では不適切であること」を意識したのです。サトウに言われてから店主さんを見ると、やはり僕のほうを見ていました。僕は店主さんのことを全く意識していなかったのです。もう高校生なのにまだ子供でした。
 子供であるにも関わらず、他人への心配りができる子供に出遭うと僕は感動してしまいます。先ほどの小学生のような「思いやり感覚」を持っている子供に出遭うとき、僕はいつも「自分の高校時代のエピソード」を思い出し恥ずかしい記憶が蘇ってきます。僕はなんと感性の鈍い子供だったのでしょう。
 
 僕はたまに「今の若い人たちはどんなことに共感するのだろう」「感動するのだろう」と考えることがあります。例えば、他人を思いやる行動を見たり聞いたりしたときに、僕と同じように感動するのだろうか、いうようなことです。
 僕の子供が小学校低学年だった頃、毎週ドラゴンボールを一緒に見ていました。ちょうど水曜日が定休日でしたので、一緒に見ることができたのでした。当時、週刊少年ジャンプは600万部を売るという途方もない販売部数を誇っていました。その週刊ジャンプは、有名な話ですが、その基本コンセプトとして「友情」「勝利」「努力」の3つを掲げていました。つまり、漫画家にこの3つの要素を盛り込んだ作品を描かせていました。ドラゴンボールはその頂点にあった漫画です。
 僕も当時毎週読んでいましたが、ドラゴンボールには魅せられていました。悟空が苦しい修行に耐え段々と強くなる中で、仲間を作り、敵対する相手を打ち負かし、そのうえ敵であったピッコロやベジータたちと仲良くなる過程などには感動せずにいられませんでした。僕のコラムの常連の方はご存知でしょうが、僕はドラゴンボールの登場人物ではピッコロが一番好きです。
 それはともかく、僕の子供たちも毎週楽しみにしていましたので、ドラゴンボールの訴える3つのコンセプトは親である僕と同様に子供たちも共感していたことになります。しかし、僕の子供もいつまでも子供ではありません。その共感がいつまでも続くとは限りません。年齢を重ねるに従い、親の考えだけでなく、友人や教師やほかの大人の考えに出遭い、自分自身の共感する基準を作っていきます。
 そこで、僕の疑問になるわけです。果たして今の学生さんくらいの年齢の人はどのようなことに共感、感動するのか…。
 僕も昔はナウい(?)ヒットチャートを知っていました。しかし、今では音楽を聴くことも少なくなり最新のヒットしている曲は全くわかりません。そんな僕ですが、娘が見ていた音楽番組をたまたま目にしたとき、あることに気がつきました。
 番組では僕の知らないヒットチャートに登場するアーティストが唄っていたのですが、画面の下には歌詞が出ていました。僕はその歌詞を見て気がついたのです。その歌詞に出てくる言葉、単語、フレーズが僕の若い頃と同じだったのです。つまり、歌のコンセプトが僕が若かった頃と変わっていないことを示しています。
 いくら時代が変わろうが、若い人が感動する、共感する基準は昔と同じだったのです。僕はそのことに感動し、安堵し、勇気づけられました。昔、少年ジャンプが提唱していた「友情」「勝利」「努力」が今の時代でも共感を呼ぶことの証です。
 人間は「悪い人」よりは「善い人」になったほうがいいに決まっています。しかし、「善い人」の「善」の基準が違っていては「善い人」が「悪い人」になってしまう可能性もあります。感動する、共感する基準が同じだということは「善」の基準が同じであることも示していると思います。まだまだ日本も捨てたものではありません。
 そんなことを考えた最近です。
 ところで…。
 おっちょこちょいな僕ですが、そんな昔のお話を…。
 お店ではお客様にビニールの手提げ袋に商品を入れて渡します。いつもは問屋さんに届けてもらっているのですが、開業当時、たまたま注文するのを忘れたので休業日に市場まで買いに行くことにしました。手提げ袋には「透明なもの」と「白く色がついたもの」の2種類があります。当店が使用していたのは「白く色がついた」ほうです。
 買いに行く前日、僕は考えました。市場に行ってスムーズにビニール袋を買うには「白い」ビニール袋と言うより正式な名前を知っていたほうがいいな、と。そこでネットで正式な名称を調べますと「乳白色(ニュウハクショク)」と書いてありました。僕はその言葉を頭の中に入れました。
 さて、市場に着き包装材を売っているお店に入りますと、様々な種類の商品が並んでいました。僕は「前もって正式な名称を調べておいてよかった」と自分を誉めたい気分になりました。店内を見渡し店員さんを探しますと、少し離れたところに若い女性従業員の姿が見えました。僕は、彼女に近づき探している商品を正式な名称で尋ねました。すると、女性店員さんは怪訝な顔をするのです。僕は戸惑いました。それでも、もう一度正式な名称で尋ねました。しかし、女性店員さんは怪訝な表情を変えませんでした。
 僕から少し離れて店内の商品を見ていた妻が僕たちの様子を見てそばにやって来ました。僕と店員さんのやりとりに異変を感じたようでした。僕は、妻がそばに来てから再度先ほどと同じように「正式な名称」を告げました。すると、間髪を入れず妻が口を開きました。
「違う違う、ニュウハクショクです」
 妻の言葉を聞き、僕は初めて自分の言い間違いに気がつきました。なんと僕は「ニュウトウショク」と言っていたのです。「乳」ときたら、その次に「頭」と続けてしまうのは僕の悲しい性かもしれません。
 因みに、僕の知っている「ニュウトウ」は大きな黒です。
 じゃ、また。




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