<プロとアマチュアの違い>

pressココロ上




 先々週はバレーボールのお話を書きましたが、文中でも告白しましたように自分でも興奮気味に書いていまして、とても気分が盛り上がりました。ですので、その興奮が冷めやらず、本当は先週もスポーツ関連のコラムを書いていました。しかし、スポーツ関連が続くのもナニかと思い、書きなおした次第です。ですが、途中までしか書いていないとはいえ、その書いた下書きを没にするのも惜しく、今週はその下書きに続きを書くことにしました。…というわけで今週の内容はスポーツです。スポーツってホントにいいですよね。
 さて、今週の題名である<プロとアマチュアの違い>を端的に言うなら「パワーとスピード」です。どんなスポーツであろうと「パワーとスピード」がプロとアマチュアでは圧倒的に違います。生半可なテクニックなど全く通用しないほどの差がプロとアマチュアにはあります。また、それくらいの違いがあってこそ、初めてプロと言えます。それほど、プロは高いレベルを求められます。
 もし、プロと称する選手がアマチュアの選手にテクニックを要因として負けたなら、そのプロは本当のプロの実力を持っていなかったことになります。例え、アマチュア選手のテクニックがどんなに高度でプロをも凌ぐ才能であろうともです。テクニックごときで覆される実力しか持っていないなら真のプロとは言えません。それほど、プロの実力は段違いに高くなければいけません。
 このようにプロとアマチュアの実力には大きな差があるのが当然ですが、この事実を裏返すなら、テクニックが通用する状態というのは、相対する両者が同程度の実力を持っていることを証明することでもあります。極端な例えで言うなら、ボクシングの世界で、4回戦選手が世界チャンピオンにどんなにテクニックを駆使して挑もうが通用することはあり得ません。また、野球の世界でプロの投手のボールを草野球の選手がバットに当てることなどできません。それほど、プロとアマチュアではパワーとスピードに差があります。
 これまで、便宜上「プロ」と「アマチュア」という表現を用いてきましたが、この表現はあくまで比喩に過ぎません。世の中にはプロがないスポーツもたくさんあります。そのプロがないスポーツにしても、オリンピックなど世界的な大会に出場する選手と趣味の延長としてやっている一般の選手では実力に大きな差があります。
 例えば、先々週書きましたバレーボールの世界では、日本代表チームがママさんバレーの優勝チームに負けることは絶対にありません。どんなに高尚な作戦を練り高度なテクニックを駆使しようとも、です。バレーボールにはプロの世界がありませんが、その差は歴然としています。敢えて、名称を変えるなら「玄人」と「素人」でしょうか。名称はともかく、その違いは「パワーとスピード」に拠るものです。特に、バレーボールという競技においては、その違いは体格差からきています。
 そのバレーボールの試合では「流れがとても重要だ」と言われています。僕がこの言葉を初めて聞いたのは先々週のコラムに書きました松平監督からでした。そのコラムで書きましたが、ミュンヘンオリンピックで東ドイツとの準決勝のとき、負けが濃厚な展開の中で、松平監督は「流れ」を変えるために南選手を起用しました。そして、その起用がズバリ当たったのですが、バレーボールというスポーツでは「流れ」はとても重要です。
 「流れ」に影響を与えるものに「リズム」があります。自分たち、個人であれば自分の「リズム」で戦うことができれば「流れ」を自分たちに引き寄せることができます。
 高校時代のバレーボールの大会で、僕たちの地区には全国的にも有名な私立高校がありました。そのチームには身長190cmの選手もいて強豪チームでした。そのチームのキャプテンは、身長は特別高い選手ではありませんでしたが、試合の流れを掴むことには長けていました。それを象徴するのが、「流れ」が相手チームにいっていると思えるときに必ずやる行為です。
 わざと「靴のかかとを脱ぐ」のです。その理由は、試合を一時中断させることです。あたかも偶然に「靴が脱げた」かのように装い、審判にアピールして靴の紐を結びなおす時間を稼ぎ、試合を一時中断させるのが目的でした。中断させることによって、「流れ」を変えようとしていたのです。また、相手の「リズム」を崩すことにもつながります。実際、この行為は効果があり、相手チームに行きかけた流れを引き戻すことに成功している場面をなんどか見ました。僕的には「せこいな」という感想を持っていましたが…。
 それはともかく、この「せこい」テクニックが通用するのは実力差が大きく開いていない場合だけです。圧倒的な実力差があるときは、テクニックなどものともしないパワーおよびスピードで押しつぶされます。実際、このチームが全国大会に出場して戦っている様子をテレビで見ましたが、全く通用していませんでした。靴のかかとを脱ぎ、「流れ」を変えようとしたり、相手の「リズム」を崩そうとするテクニックなど圧倒的なパワーとスピードの前にはなんの役にも立ちませんでした。
 ときは変わって、僕が社会人になりたての頃です。
 社内の野球大会で、僕はサードを守っていました。そのときのピッチャーは僕より2才年長のKさんでした。Kさんはスピードボールに自信があるようで、僕の守備位置から見ていても普通の人よりは速いボールを投げているのがわかりました。しかし、いくら速いと言っても所詮は草野球の世界です。2回3回と回が進んでいくうちに相手チームも速さに慣れてきたようで、少しずつヒットを打たれるようになりました。
 僕はヒットを打たれるKさんを見ていてあることに気がつきました。「リズム」です。ピッチャーはヒットを打たれると気持ちが焦って投げ急ぐようになります。それに伴って、タイミングが一定になってしまうのです。この傾向はヒットを打たれることにより正常心を失うことと関係があると思います。
 タイミングが一定、とは具体的にはこうです。どの打者に対しても「イチ、ニィ、サン」と同じタイミングで投げることです。しかも、キャッチャーからの返球を受けてから投げる動作に入る、そのタイミングまでも一緒でした。この一連の動きは本人も無意識でやっていますが、ピッチャーのタイミングが一定になっていますとバッターが有利な状況になります。その理由は、打者が知らず知らずのうちにタイミングを合わせられるようになることです。いつのまにか、打者のタイミングとピッチャーのタイミングが合ってしまっているのです。そして、本来なら打たれるはずのない打者にまでバットを合わせられるようになります。これでは、打者が打ちやすいように投げているようなものです。
 Kさんの投球動作はちょうどそんな一連の動きになっていました。僕は、続けてヒットを打たれたあと、キャッチャーから返球を受けると、これまでと同じように投球動作に入ろうとしているKさんに近づき、声をかけました。
「Kさん、タイミングが一緒だから、打者が打ちやすそうですよ」
 怪訝そうな表情のKさんでしたが、僕の提言を受け入れてくれ、それからは意識してタイミングを変えるようにしました。もちろん、それからは連続して打たれることはありませんでした。
 タイミングをずらすのはほんのちょっとでいいんです。それどころか「ほんのちょっと」のほうが理想的です。そのほうが相手に気づかれずに、自分のリズムで戦うことができます。大相撲で白鵬の連勝記録が途切れてしまいましたが、白鵬に破られるまで戦後の連勝記録は横綱千代の富士が持っていました。その連勝記録が途切れた取り組みでの「タイミング」と「リズム」の駆け引きは印象に残るものでした。
 連勝記録を止めたのは横綱大乃国でした。それまで、大乃国の対千代の富士戦の成績は部が悪いものでした。ですから、師匠からまで見放される言葉を貰っていました。さすがに、大乃国は考えました。これまでの負けの原因を考えたとき、立ち合いが全て千代の富士のリズムであることに気がつきました。そこで、大乃国は考えました。立ち合い前の仕切りのときから少しだけ、ほんの少しだけタイミングをズラす作戦を立てました。この作戦が功を奏したのでしょう。見事、大乃国は千代の富士に土をつけることができたのでした。千代の富士は負けたあと、インタビューで答えていました。
「今日は、仕切っているときから、なんかタイミングが違う気がしていた」
 もし、誰でも気がつくような「タイミングはずし」「リズムずらし」であったなら、効果を発揮しないでしょう。大切なのは「ほんの少し」の「はずし」「ずらし」です。これを「ほんの少し法則」と言います。
 しかし、この法則が通用するのはあくまで実力に大差がないときだけであることをくれぐれも忘れないようにしてください。
 ところで…。
 先週、検察に関連する報道で気になる記事がありました。それは、大阪地検がある容疑で逮捕していた知的障がいのある男性を「有罪立証が困難」として釈放した内容でした。検察は、男性に謝罪までしています。
 僕は以前から、なにかの事件があったときに、その被疑者が知的障がい者の場合、とても気になっていました。僕からすると、「警察や検事に言われてることの意味を正確に理解していない」と感じていたからです。
 今回の釈放は、今年発覚した検察の史上最悪の汚点ともいえる証拠改ざん事件と無縁ではないでしょう。また、裁判員制度が影響しているかもしれません。これらのことにより検察はこれまでのやり方を見なおさざるを得なくなっています。
 現在、「検察のあり方検討会議」が開かれていますが、この対応も遅すぎる感じがします。本当なら、証拠改ざん事件以前に、検察内部から「検察のあり方」を見直す機運が起こってしかるべきでした。これまでの冤罪事件や冤罪になりかけた事件に真摯に向き合っていたなら、自らを顧みる必要性を感じたはずです。それが起きなったこと事態が問題です。そこには、傲慢さがあったと判断してよいのではないでしょうか。
 スポーツの世界では、プロはアマチュアとの力の差を自覚していますから、仮に対戦することがあっても、絶対に本当の力を出しません。もし、プロボクサーがアマチュアボクサーを本気で殴ってしまったなら、アマチュアボクサーは命を落とすことさえあります。プロボクサーはその危険性を自覚していますから、絶対に本気では殴りません。
 取り調べ室では、検察はプロで被疑者はアマチュアです。
 じゃ、また。




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