<愛の分配法則>

pressココロ上




 数年前から「名ばかり管理職」という働く人たちに不利な労働状況が問題視されるようになっていました。この問題点は、名目上だけ管理職にすることによって、企業が残業代の支払いから逃れることです。簡単に言いますと、「給料は増やさずに長時間労働を課すことが可能になる」という企業にとって都合のいい労働状況を作り出すことが目的のようでした。
 先週、居酒屋チェーン「和民」を展開するワタミフードグループが労働基準監督局から労働協定違反を指摘されたニュースがありました。これなども、「名ばかり管理職」と同根の問題ですが、一般に飲食業や小売業でこうした悪しき慣習が行われているように思います。そして、これらの企業の特徴としてパートさんやアルバイトさんにいろいろな仕事を任せることがあります。
 僕はかねがねパートさんやアルバイトに任せる仕事の範囲について疑問を感じていました。飲食業や小売業などでよくありますが、店舗を運営している人員構成が社員は1人か2人であとはパート・アルバイトさんということがあります。このような人員構成では、自ずとパート・アルバイトさんに様々な仕事をしてもらうことになります。単に、「様々」であればよいのですが、そこに「重い」とか「重要な」という形容詞がつきますと話は簡単ではありません。
 報酬、賃金、給料など呼び方はいろいろありますが、つまりは働いた対価としてもらう金銭のことです。その金銭が「労働内容に見合っているか」はとても大切です。一応、時間給に関しては法律で最低賃金という金額が地方ごとに定められています。ですから、時間給に関しては労働に見合った基準というものが存在しますので、一応歯止めがあるといえます。問題は、その仕事の質です。
 「仕事の質」を一言でいうなら、「責任」です。本来は労働の対価の金額は「責任」に見合っている必要があります。そうでなければ、働く人たちが過重な負担を押し付けられることになってしまいます。
 求人誌などを読みますと、「パート・アルバイトの人にも重要な仕事を任せる」ようなニュアンスの文章が書いてあることがあります。この文章の意図は、パート・アルバイトさんでも「仕事のやりがい」があることをアピールしているのだと想像します。しかし、この文章は見方を変えるなら、「安い給料で責任の重い仕事をこなしてもらう」ともとれます。競争社会で戦っている企業ですから、本来の目的はこちらにあると考えるのが自然です。
 僕は企業のこうした考え方に批判的です。これでは、働く側だけに負担を強いることでしかありません。以前、東海地方にある飲食関連企業が取締役にパートさんを抜擢したことが話題になりました。その取り上げ方は、概ね「積極的にパートさんを活用する」といった好意的なものでしたが、僕は反対の感想を持ちました。
 パートさんにそれほど重要な仕事を任せてどうするのか? と。
 本来は、取締役に就任した段階でパートさんではなくなっているはずです。取締役という職種はパートさんがこなすには責任が重過ぎる仕事の質です。普通、パートさんであれば用事があるときは仕事より用事を優先させることができます。しかし、責任の重い仕事に就いたならそうはいきません。例えば、子供が病気になったからといって簡単に仕事をほっぽり出すわけにもいきません。だからといって、仕事を優先させるなら家庭が崩壊しかねません。仕事と家庭の比重の割り振り、その両立は口で言うほど容易ではありません。
 小田実さんという方をご存知でしょうか。ウィキペディアには作家や政治運動家と書かれていますが、1961年に出版された「なんでも見てやろう」がベストセラーとなり、その後「ベトナムに平和を!市民連合」、通称「ベ平連」を結成した方です。
 先週、この小田氏について元親友である小中陽太郎氏が書いた本を読みました。この本は小中氏から見た小田氏の人生を綴ったものですが、その中には小田氏の女性関係や結婚、再婚についても書いたありました。単に、きれごとだけを書いてあるのではないことがこの本の信憑性を高めているようでもありますが、僕はその部分を読んで不思議な気持ちになりました。
 小田氏は平和や弱者についてとても心を砕き、真剣に取り組んでいるのがわかりました。小田氏の人格を俗っぽい言い方で表すなら心優しき人です。ですが、その同じ人物が女性に関してはそうでないことが不思議でした。女性という表現は正確ではないかもしれません。身近な女性、つまり奥様に対してです。本当に優しい人なら、奥さんを捨てて違う女性と再婚などしないでしょう。なぜって、最初の奥さんがかわいそうだからです。
 作家の井上ひさし氏は、たぶんご存知でしょう。先週、井上氏について書かれた本を読み始めました。誰が書いたか、といえば、別れた奥様です。まだ読み始めたばかりですので、詳細にはわかりませんが、井上氏も小田氏と同じような人格のようでした。井上氏の場合は、奥様だけでなく娘さんたちに対しても「優しくない人」として奥様は書いていました。
 井上氏も小田氏に負けず劣らず弱者に対する思いやりが人一倍強い方のように思っていました。著作や活動などを見ていますと、人格すべてに優しさが満ち足りている印象を持ちます。しかし、奥様の本を読みますと、身近な人には冷たい方のようです。僕は、それが不思議です。
 小田氏について書いた小中氏、井上氏について書いた奥様、どちらも最終的には仲たがいしています。ですから、その筆致に相手に対する批判的な気持ちがこもっていても不思議ではありません。ですが、そうしたことを割り引いても、両人ともに社会に対する気持ちと、身内の人に対する気持ちに格差があるように思えて仕方ありません。こうした言い方は、「外面がいい」という批判をしているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。そのような表層的な意見ではなく、また、いい悪いでもなく、両人は純粋に自然に「社会と身内とで考え方に格差をつけている」ように思います。そうでなければ、これだけ優しき両人が、身近な人を不幸になどするはずがありません。
 僕は両人のこうしたある意味「不公平な性格」を非難しよう、というのではありません。ただ僕が思うのは、なんびとでも「社会と身内の両方に完璧に優しくする」のは無理なのではないか、ということです。
 数年前から、ワーク・ライフ・バランスということが提唱されています。ご存知のない方のためにウィキペディアを引用しますと、
 ワーク・ライフ・バランスとは、「仕事と生活の調和」と訳され、「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」ことを指す。
 つまりは、仕事と家庭の両方を両立させましょう、ということですが、実はこれは簡単ではありません。僕は不可能とさえ思っています。
 この考えを、無理やり例えるなら、「愛の分配法則」とでもいいましょうか。えっ、おかしい? まぁ、そういわずに…。無理やりですから。
 愛を仕事に振り向けるか家庭に振り向けるか、です。もし、ナポレオンのような天才であるなら両方に100%の愛を与えることは可能でしょう。しかし、普通に暮らす凡才ではそれは無理というものですから、少しずつ減らす必要に迫られます。理想としては、やはりフィフティフィフティです。どちらにも公平に取り組むのが平等ですから、半分半分にするのは尤もな考えのはずです。
 しかし、理想通りにいかないのは凡人の凡人たるゆえんです。そのときどきによりアンバランスになって当然です。なにしろ、神様ではないのですから。あの小田氏でさえ、そして井上氏でさえ、愛を社会と身内の両方に注ぐことはできませんでした。ましてや、凡人でさえ…。
 皆さん、心して、「仕事と家庭」、独身の方なら「仕事と恋」、結婚するつもりのない方なら「仕事と自分の人生」において後悔しない「愛の分配法則」を見つけましょう。愛は無限ではありません。
 ところで…。
 都心を車で走っていましたら、ある有名な新興宗教団体が新しく映画を作ったようで、そのポスターが8階建てビルの壁一面ほどの大きさで掲示されていました。名前から察するに、プロデューサーは代表のご子息のようでした。それにしても、お金がかかっていそうな映画を製作できるのですから、宗教団体というのは余程のお金持ちなのですね。
 日曜、そのポスターと同じものが新聞の広告面にデカデカと掲載されていました。正直な感想をいいますと、そのポスターを見て僕は落胆しました。なぜなら、天下の大手新聞が宗教団体の軍門に下った印象を持ったからです。
 今は下火になっていますが、一時は社会的に批判された新興宗教です。その団体の広告を掲載することに躊躇する気持ちはなかったのでしょうか。お金を払えさえすれば、大手新聞の広告面さえ購入できるという現実が悲しいです。やはり、お金でなんでも買えるのですね。ハマショーが聞いたら悲しむでしょう。
 そういえば、この宗教団体の代表とその奥様の離婚を報じる週刊誌を見た記憶があります。宗教の世界でも、愛の分配法則は難しいようですね。
 じゃ、また。




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