<面子(メンツ)>

pressココロ上




 先週のマスコミはノーベル賞を獲得した京都大の山中伸弥教授の話で持ちきりでしたが、僕は山中教授のマスコミへの対応の仕方に感激していました。ややもすると高揚感が勝り普段より一オクターブ高い対応をしてもおかしくないと思いますが、冷静で地に足がついた語り口で、本当に頭がよく能力のある人の理想の姿なのではないかと感じていました。
 僕は山中教授のような方々の属する層にいる人たちは一般の人たちとはどこか違う感覚があるのではないか、と想像しています。世の中には勉強しなくとも勉強ができる種類の人間がいます。確実にいます。
 僕の高校時代に全くといっていいほど勉強しているふうはなくとも成績がいつも学年で上位に入っていたクラスメートがました。こういう生徒は得てしてマイペースですのでどちらかというと「先生受け」もあまりよくなく、つまりは「好かれていない」ことですが、それでもそのことを気にするうふうでもなく、自分のやりたいようにやっていました。
 やりたいことをやるのですから、例えば国語の時間に隠れて英語の本を読んでいたりとかしているわけですが、本人は注意をされたら素直に従っていましたから、単なる反抗生徒というわけでもありませんでした。また、こういう生徒の特徴としてありがちですが、この生徒も一匹狼的な行動をとっていました。つまり、友だちと連れ立ってなにかをするということがなかったのです。簡単な話が親しい友だちがいないということだけですが…。
 僕は頭がよかったわけでもなく一匹狼的な雰囲気もしない平凡な生徒でしたが、ただひとつ共通するところといえば、「友人がいない」ことでした。そうしたことが影響したかどうかはわかりませんが、一度だけその生徒の家に遊びに誘われたことがありました。そのときもなにをどうしたというわけではなく、ただコーヒーを飲んでたわいもない話をしただけでした。その後、特別に仲がよくなったということでもありません。なぜ、その生徒が僕を家に招いたのか、今でも不思議です。それはともかくその生徒は現役で慶応大学に進学しました。
 このように本当に頭のいい人は凡人では理解できない考え方や感じ方をするように想像していますが、たぶん山中教授も外見だけをみますとやせ細った神経質そうな穏やかな中年のように見えますが、中身は相当な俊才であることは想像に難くありません。
 そんな山中教授ですが、今回いろいろなマスコミで紹介されています経歴をみますと、自らの劣等性ぶりを告白しています。医者を志した当初は整形外科医を目指していたが手術が下手で研究の道に進んだエピソードなどを読みますと、僕はもちろんのこと若い方々も勇気づけられます。こんな俊才でも苦手なことがあるんだ…。
 なんでもそうですが、成功したことやうまくいったことは自慢話になりやすい欠点があります。本人はそのような意図がなくても話の展開次第でいくらでも自慢話に陥ってしまいます。自慢話が若い人や他人に参考にならないのは自明ですが、本人は満足感が得られますので成功談に陥りやすくなってしまいます。そういう展開にならないためには、そして若い人やほかの方たちに参考にしてもらうためには失敗した話や悩んだことを率直に公開するのが一番いい自分の過去の話し方です。
 その意味で山中教授の話は先の整形外科医の道をあきらめたことや日本に戻ってきても研究する環境が整っていないことにより挫折感を味わった話などは凡人にも参考になります。山中教授のような天才の人でさえ自分の才能を生かすための環境やタイミングが必要なことを教えています。ですから、凡人の人がひとつのことでうまくいかないからといって落胆する必要などありません。仕事には向き不向きがあるのは天才も凡才も同じはずです。ほかの道で自分に向いている道を探す努力をすればいいだけです。
 僕がそのほかに山中教授の話の中で感激したのはお金に関する話でした。山中教授は研究室で働いている人たちの待遇の悪さについても話していました。現在、山中教授の研究室は正社員よりも非正社員の割合が高いそうで、山中教授はそのことを憂慮していました。そのような人員構成の組織は山中教授の研究室にどとまらずどこの企業でもあることですが、それを敢えて触れたことに感激しました。
 その話を聞いていて思い出したのがアニメ監督の宮﨑 駿氏の話でした。確かアカデミー賞を獲得したときのことだと思います。世間から注目を集めたのは山中教授のノーベル賞と同じでそのときも多くのマスコミのインタビューを受けていました。そのときに宮崎監督がいつも触れていたのがアニメ業界の待遇境遇の悪さでした。給料が低く労働時間の管理もされていない劣悪な環境について改善の必要性を訴えていました。
 山中教授にしても宮崎監督にしてもその素晴らしさは才能だけでなく周りの人たちの待遇にまで思いを馳せられることです。そこには自分の成功だけを願っている傲慢な感じは微塵も感じられません。本当に素晴らしい人というのは自分の成功だけでなく多くの人の役に立つ振る舞いをとれる人のことを指すのでしょう。
 こうした人を「面子にこだわらない人」と言い換えることができます。面子をカタカナ語に変えるならプライドといえますが、つまらない面子を重んじることに終始し、結局なにもできず、周りに迷惑をかけるだけの人がいます。面子ほどやっかいで周りを不幸にするものはありません。
 山中教授のノーベル賞に関連したニュースで不可解な騒動がありました。森口某という男性のiPSの臨床手術に関するニュースでした。結局、森口という人は医師の免許もなく単なる売名行為功名心がさせた行為だったようですが、本当に人騒がせなニュースでした。こうした不届きな振る舞いの根本にあるのも面子のように思います。
 細かいことまではわかりませんが、面子を保ちたいがために嘘を重ね、その嘘がまた嘘を重ねることになった結果が今回の騒動の根本原因のように推測しています。つまらない面子に振り回された事件でした。
 この事件ではあとひとつ面子を感じさせることがありました。それは読売新聞だけが報道した、という事実です。こうした失態を起こしたのも記者もしくはデスクの面子が判断を誤らせた原因のように思います。いろいろな情報を読んでいますと、この森口という男性は自分からいろいろなマスコミに情報を売り込んでいたようでした。新聞記者でなくとも一般人でさえ情報を新聞で報道する際はその裏づけをとることを考えます。それを行なっていたなら読売新聞は今回の失態を犯すことはなかったはずです。
 広告の落ち込みなどで新聞やテレビなどマスコミの凋落が言われて久しいですが、それでもマスコミ業界にいる現在の中高年の方々は有名大学などを卒業したエリート意識がある人たちです。そしてそういう人たちの特徴として面子を重んじる傾向があります。今回の騒動も面子というやっかいなものが影響したように思えてなりません。
 よく「面子が潰された」などと表現することがありますが、そこには「恥をかきたくない」という気持ちが裏にあります。ですが、そのことばかりに気を取られていると大事な判断を間違うことになることを今回の読売新聞の報道が教えてくれています。
 つまらない面子など捨ててしまいましょう。
 ところで…。
 先週のニュースにインターネットに関連した事件がありました。ある犯罪性のある書き込みをした容疑で幾人かの男性が逮捕されたのですが、それが誤認逮捕だった事件です。警察がその人たちを逮捕した根拠は書き込みをしたパソコンを割り出しその所有者という根拠でした。
 しかし、実はそのパソコンは第三者により遠隔操作をされていた、というのが真実でした。今回真犯人が公表したことでその事実がわかりましたが、僕が一番気にかかったのは、容疑を認めた大学生がいたことです。大半の男性は、実際に犯行を犯していないのですから否認していたのですが、この大学生は犯罪を認めてしまっていました。
 このことについてマスコミが後追い記事を報道するか僕は関心を持っていますが、警察の取調べの方法は責められて当然です。あと一歩間違うと冤罪を生んでいたことになります。こうした過ちも警察のつまらない面子がさせたように思います。
 人はなにかを決めるときに、その裏に面子が隠されていないか、常に自問している必要があります。所詮、面子は4人というわずかな人数の仲間内でしか必要とされないものでしかないことを自覚しておきましょう。
 じゃ、また。




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