<理想と現実、本音と建て前>

pressココロ上




 元リクルート社員で役員まで上り詰め、その後公立中学校の校長を務めた藤原和博さんという方がいます。東大卒という経歴もあり一時期テレビなどにも頻繁に出ていましたし、本などもたくさん書いています。また校長時代は授業に「よのなか科」という科目を導入したことでマスコミから注目されたこともあります。
 その藤原さんがラジオで「新聞なんか読まなくていい」と話していました。ちょっと意外な感じがしましたが、藤原さんによりますと、
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「新聞をとるのを止め、テレビを居間からどけると、世の中が見え てくる」
 
 「新聞の報道をそのまま事実として受け取ったり、キャスターの 勝手な解釈を自分の意見であるかのように勘違いしてしまう情報  過食症症候群が治る」
 
 「メディアが作り出すバーチャルリアリティから逃れて、自分自身  が生きているリアリティを取り戻すことができる」
 「そして何より、自分の人生について考える時間ができる」
 「日本で一番支配的な宗教は、神道でも仏教でもキリスト教でもない。明らかにテレビ教であり、新聞教だ」
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 いわれてみますと一理あるような気がします。しかし、世の中で起きていることを知る手段や機会が減ってしまうような気がしてきますが、その点はどうなのでしょう。もしかすると、「今の時代は」という前置詞がつくのかもしれません。もし、そうであるならば今の時代は世の中で起きていることをネットで簡単に知ることができます。また、いろいろな立場や考えの人の意見を知ることができます。新聞は価値がなくなったのでしょうか。
 以前、新聞の未来について分析・予想している本を紹介したことがありますが、その著者は元新聞社の幹部の方でした。新聞の発行部数が減少傾向にあるのは間違いありません。実際、我が家を担当する新聞販売所は年末で閉鎖され近隣の販売所と統合されました。僕のような中高年の人は新聞を読むことを趣味のようにしていることもありますが、もっと若い年代になりますと新聞に価値を見出せないかもしれません。
 というわけで、今の心境は新聞の購買の是非について悩んでいる状態です。でも、きっかけはほんの些細なことでして、新聞の後片付けを面倒に思うようになったことです。いつも新聞はテレビの下に無造作に置いてあり、下手をすると数日分が溜まることがあります。古い新聞の置き場所は違うところなのですが、毎日そこにしまうのが面倒に思えたわけです。
 これがパソコンですと、新聞のように場所をとることがありません。また、いろいろな新聞を見ることができますので、異なる意見や立場の違う人の考えを知ることも容易です。これまでのメディアは価値がなくなったのでしょうか。
 トランプ氏の記者会見をニュースで見ましたが、自らに批判的なメディアに対しては徹底的に無視する態度をとっていました。僕が気になるのは、トランプ氏のこうした対応に対してメディア界が一体となって抗議の姿勢を示さなかったことです。マスコミメディアの役割は権力を監視することなのですから、特定のメディアが無視されようとするならマスコミメディア界全体で抗議をするのがマスコミメディア界の義務のはずです。マスコミメディア界の先進国であるはずの米国がこの様では今後が不安になってきます。
 トランプ氏の主張の特徴はベルト地帯と言われる地域の人たちの本音をあからさまに発言することです。そのトランプ氏の発言に対して注意を喚起する意見を耳にしました。これは幾人かのジャーナリストの方が期せずして同じことを話していたのですが、
「人間はわがままな生き物だから、本音を主張する行為は危険で、それを倫理感で蓋をするのが人間社会である」
 いわゆる「性善説、性悪説」の性悪説をとっているわけですが、欧米の難民に対する最近の対応や英国のEUからの離脱、また今回の米国大統領選の結果の根底には性悪説が潜んでいるように思えます。本音とは「自分だけが得をしたい」という感情です。倫理観とは建て前と言い換えることもできます。「理想はそうだけど実際は無理だよね」の理想を目指す気持ちが建て前です。
 人間が本音だけで生きるようになってしまっては、対立や衝突が起きるのは目に見えています。過去の歴史が証明しています。本音で話すことは気分を高揚させる働きがありますのでポピュリズムになりやすい傾向があります。しかし、気分が高揚した状態でものごとを決めることはとても危険です。世の中にはいろいろな人がいてその全員に健全に生きる権利があるからです。
 ですから本音をあからさまに表に出すのではなく、婉曲的に本音を建て前でオブラートして話し合いをスムーズにすることが大切です。そのような知恵を出すことこそ人間である証拠になります。しかし、現在の世界の流れは本音でものごとを解決していこうとしているように映ります。
 僕が学生時代、まだ世の中のことなんかなにもわからずただ楽しいことだけを求めていたとき。国際関係論という学生200名ほどが入る大きな教室で授業を受けていました。その教授は試験前に自分が書いている本に書いてあることを試験に出すことで有名でした。つまり、単位を取得するには教授の本を買う必要があるのでした。実際に、本を買ったかどうかは記憶は定かではありません。
 これほど大きな教室での授業ですので、後ろのほうの席で寝ているのが常でした。しかし、なぜか不思議と教授が「パワー オブ バランス」と言ったのが耳に入ってきました。顔を机にうつぶせて寝ていたその耳に入り込んできたのです。
 僕は顔を上げて教授をほうを見ました。教授は大きな机を前にして椅子に座って話していました。そして、こう言いました。
「世界の平和は軍事力のバランスで成り立っている」
「へぇ~、言われてみればそうだよな」
 僕が初めて国際関係に興味を持った瞬間です。別にだからと言ってそれ以降勉学に励んだわけではないのですが、「パワー オブ バランス」が脳のシワに刻み込まれました。
 オバマ大統領が退任の演説をしている映像を見ました。よくよく考えますと、黒人でありながら米国の大統領にまで上り詰めたのですから、ものすごい快挙でした。しかも2期8年も務めたのですから画期的なことでした。ある意味、そこが米国の素晴らしいところです。チャンスは誰にでも平等に開かれていたことになります。
 オバマ大統領の言葉を借りるなら米国の魅力は「多様性」であり「寛容さ」です。米国は移民を積極的に受け入れることで活力を発揮できたとオバマ大統領は語っています。トランプ新大統領はその魅力を手放そうとしているように見えます。理由は、移民によって米国人の仕事が奪われるからです。これは米国人の本音ともいえます。かつては、その本音を我慢して米国の魅力である寛容さを見せる建て前がありましたが、それがなくなってきているようで不安です。
 オバマ大統領は核兵器をなくすことも目指していました。しかし、現実は理想を駆逐してしまいました。やはり、現実は理想通りにいくほど甘くはありませんでした。それでも僕は思います。理想と建て前を手放してしまえば、それは人間をやめることと同じになってしまいます。
 そういえば、昔こんなキャッチコピーがありました。
「人間やめますか? 薬やめますか?」
「人間やめますか? 戦争やめますか?」
 じゃ、また。




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