先週の続きです。
「リカちゃん、リカちゃん…、タカアキィ、タカアキィ…」。
最近、続いていた不審な電話の主はお母ちゃんでした。久しぶりに聞くお母ちゃんの声でした。
それから数日後、たまたま在宅中に電話が鳴りました。僕はお母ちゃんの可能性を予想していましたので聞き耳を立てて、電話から聞こえてくる声に神経を集中させました。
「リカちゃん、リカちゃ……」
僕はすぐに受話器を取りました。
「お母ちゃん、僕だよ」
「タカアキィ。。…、…。あのね、お茶をもらったから渡したいだけどいつ会える?」
僕はお茶が大好きです。どんな飲み物よりもお茶が大好きでした。
お母ちゃんと会うことになりました。待ち合わせ場所は駅の改札口です。
当日、僕は妻と一緒に向かいました。約束している時間に改札口に行きますと、お母ちゃんはまだ来ていませんでした。少しして電車がホームに入ってくるのが見えました。降りてくる集団のうしろのほうにお母ちゃんの姿が見えました。
会うのは本当に久しぶりです。お母ちゃんは僕たちを見つけると笑顔を見せながら歩いてきました。そして、改札口を出ると、「リカちゃんー」と妻のほうに近寄り両手で妻の腕を握り、そして摩りました。お母ちゃんの目元からは瞬く間に涙があふれてきていました。
僕にはお母ちゃんの気持ちがわかります。
お母ちゃんが僕ではなく、真っ先に妻に近寄り身体に触れて涙を流したのは、息子である僕に抱きつくことの気恥ずかしさもあるでしょう。しかし、それと同じくらい妻に対するお礼と感謝の気持ちがあったはずです。
僕たち夫婦は、結婚をしたときお父ちゃんの要望で2DKの狭い借家で同居することになったわけですが、あるときお母ちゃんは僕と二人になったときポツリと言った言葉があります。
「リカちゃんは、よくうちみたいな貧乏な家にきてくれたよねぇ」
同居したときの我が家は狭い家でしたので、お風呂の脱衣所もありません。脱衣所の代わりをしていたのは狭い廊下です。妻はそこを脱衣所として使っていました。20才を過ぎたばかりの若い女の子が赤の他人の家族と一緒に暮らすのは本当に大変だったはずです。お母ちゃんはそれをわかっていました。
ある日、お母ちゃんがうれしそうな顔をしながら、公営住宅の申込書を持ってきました。
「今日、役所に行ったらたまたま置いてあったんだけど、公営住宅の募集用紙があったんだよ。たぶん、あまり知られていないと思うから当たりやすいよ」
当時、僕には公営住宅に関する知識など全くありませんでした。当時の僕の公営住宅のイメージと言いますと、「応募する人が多くて、とても当選などしない」というネガティブなものでした。
もちろん、申込書の書き方などはわかりませんので、お父ちゃんに教えてもらいながら年齢や収入などのいろいろな項目を言われるまま記入して応募しました。
すると、なんと驚いたことに後日当選の連絡が届いたのです。お母ちゃんの「あまり知られていないから、当たりやすいかも」という予想が当たったのです。
僕は喜び勇んで、手続き会場に向かいました。
ところが、手続きの担当者は僕が記入した用紙の内容を見ながら言うのです。
「せっかく当選したのに申し訳ないのですが、あなたの収入は高すぎて入居条件に当てはまりません」
自慢ではありませんが、当時、僕の収入は決して高くはありませんでした。サラリーマンを辞めて初めて独立をしたばかりの時期でしたので、まだ収入はほとんどない状態だったのです。それにもかかわず「収入が多い」という指摘には驚かされるばかりでした。
そこで、その申込用紙を書いたときの状況を思い出しました。そのとき、僕はお父ちゃんからアドバイスを受けながら書いたのですが、すべての項目をお父ちゃんに言われるままに書いていました。そのときに収入の数字を高く書いてしまっていたのでした。
しかし、今更どうすることもできません。せっかくお母ちゃんが見つけてくれた公営住宅だったのですが、あきらめるしかありませんでした。
そんなことも思い出しながらのお母ちゃんとの久しぶりの再会でした。そのまま3人で近くのファミレスに行き、結局2時間くらいお互いの近況報告をしました。
それからは、お母ちゃんとは1年に1回くらいの頻度で会うようになりました。連絡の取り方は最初のときと同じで、不審な電話がかかってきたら、その次の電話に必ず出るというパターンです。
そういうパターンができて3年~4年くらい経った頃でしょうか、妻があることに気がつきました。
「ねぇ、お母さんからの電話って、いつも公衆電話からかけているみたい…」
ご存じの方もいるでしょうが、家の電話からかけるときと違い、公衆電話からかけたときは最初にピーッという音が鳴ります。妻はそのことに気がついたのでした。
もちろんお母ちゃんの家にも電話はあります。それにもかかわらず公衆電話からかけているのです。お母ちゃんはお父ちゃんに内緒で僕たちに連絡を取っているようでした。そんなにまでして、僕たちに会いにきていることに母親の愛を感じずにはいられません。
そのお母ちゃんが旅立ってしまいました。
棺の中のお母ちゃんは微笑むでもなくただ目をつむっているようでした。そのお母ちゃんを見ていると、自然に涙があふれてきました。ぬぐってもぬぐっても涙があふれてきました。
鹿児島の離れ諸島から上京し、都会で暮らした60年。辛いことも楽しいこともあったでしょう。そんな人生が終わりを告げました。
僕がお母ちゃんに最後に会ったのは、2年前です。お母ちゃんの妹さんは海外に住んでいたのですが、その方が亡くなったという連絡を受けたあとです。お母ちゃんはお茶と一緒に妹さんが写ったアルバムを持ってきていました。そして、妹さんとの思い出をたくさん話しました。「誰かに話したくて仕方ない」という思いが伝わってくる話し方でした。
僕の記憶に残る最後のお母ちゃんの映像は、最後に会った日の改札口で見送ったときの後ろ姿です。改札口から20メートルほど進んだところで、僕たちのほうに振り返り軽く左手を数回振りました。
僕は今でも聞こえてきます。
「タカアキィ、タカアキィ」
お母ちゃん、天国に行ってもお元気で…。
<お母ちゃんシリーズ全4回>
おわり
ありがとうございました。
じゃ、また。