<「いじめ」の根源>

pressココロ上




学校内で学童や生徒や学生が「いじめ」に遭う被害は、30年以上前から報道されていました。学校や社会が本気で「いじめ」をなくす努力をしていたなら、「いじめ」はなくなっていたのでしょうが、今現在でもなくなっていません。

これまでも悪質で重大な「いじめ事件」はありましたが、一向に減らないのは大人たちが本気で「いじめ」をなくそうという努力がなされていないことの表れです。そして、それを証明するような事件が相次いで報道されています。

まず信じられない事件として筆頭に上がるのは、神戸市立東須磨小学校の教員間いじめ事件です。先輩教師が後輩の教師を執拗にいじめていたのですが、事件そのものも信じられませんでしたが、それ以上に異様に思えたのは「いじめている様子」がネット上に上げられていたことです。

動画を見ますと、撮影していたのは加害者の一人と思われますが、なぜ「自分たちの悪行が露わになるような動画」をわざわざアップしたのか。これでは「自分たちが犯人です」と訴えているようなものです。

アップした理由を無理やりに考えるなら、「世間から批判されるとは思っていなかった」に尽きますが、もしそうであったならその時点で加害者の4人は感性がおかしくなっていることになり、教員失格です。そのような人が教員をやっていたのですから、子供たちの世界で「いじめ」がなくなるはずはありません。

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話は逸れますが、今安倍首相の「桜を見る会」が問題視されています。これも加害教員と似たような感覚が根底にあるように思います。それは「後援者を参加させること」が公職選挙法違反になるとは思っていなかったことです。

僕が見たニュースでは、会に参加した人が記者の取材に呼ばれた経緯を悪びれた様子もなく答えていました。参加した方は、取材に詳細に答えていますが、その対応を見ていますと、取材が「首相を批判する目的で行われている」ことを自覚していないようです。ある意味、取材する側に利用されているようにも見えますが、「桜を見る会」の実態を証言していることは間違いありません。

こうした証言が報じられて初めて、首相近辺は「事の重大さ」を認識したようです。そこからの対応はすぐさま「来年は中止」と発表し、そして首相の釈明までは行われました。実は、この釈明方法も緻密に計算されていることが想像できます。釈明会見が、いわゆる「ぶら下がり」という場だったからです。

ネットの記事などの解説を読みますと、「ぶら下がり」で質問する記者は各社の若手が担当するようです。つまり取材にあまり慣れていない新人が行うことになります。つまりわかりやすく言いますと、安倍首相は「素人の記者を相手にすることで、厳しい追及をされない会見を行った」ことになります。実際、「ぶら下がり」の映像を見ますと、記者に反対に質問するなど余裕の対応をしていました。「森家計(もりかけ)問題」のときのように、逃げ切れると思っているようです。

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話を戻します。

先週ニュースになった事件は、消防士の「いじめ」でした。ここでもやはり先輩が後輩をいじめていたのですが、ニュースを詳細に知りますと、「いじめ」の範疇を超えて立派な犯罪となる内容でした。このような大人がいるのですから、子供の世界で「いじめ」がなくならないのも当然です。

このほかにも過去を遡りますと、警察や自衛隊などでの「いじめ事件」を確認することができますが、共通しているのは組織が年功序列型で運営されていることです。また、役職が重い意味を持つ上下関係で成り立っている組織であることです。「上司の命令は絶対」という風土があることが特徴です。

人間は悩みの中に入り込んでしまいますと、「選択肢が狭まる」という負のスパイラルに陥ってしまうことがままありますが、それが過ぎてしまいますと悲しい結末を迎えることもあります。実際には、それ以外にも選択肢があるにもかかわらず、その選択肢を「考える」または「思いつく」もしくは「気が付く」ことができない精神状態になってしまうのです。

苦しくて辛くて「生きていくのが嫌になる」環境にいるなら、その環境から逃れるのが正しい判断です。ですが、悩みの坩堝に迷い込んでしまうと、その判断ができなくなっています。一度、すべてを捨ててまっさらになることが大切です。

高校も含めて子供の世界で「いじめ」が起きたとき、子供の力だけで「いじめ」を解消するのはなかなか難しいものがあります。それを手助けするのが周りの大人の責任であり義務ですが、その前提として大人が公正で平等な感覚の持ち主である必要があります。しかし、最近のニュースを見ていますと、そのような大人が少なくなっているように感じてしまいます。

それを裏付けているのが、大人の世界の「いじめ事件」です。冒頭に書きました「神戸市立東須磨小学校の教員間のいじめ」事件において、僕が不思議でならないのは「いじめ」が起きていたとき、周りの教師の同僚は「なにをしていたのか」ということです。

誰がどう見てもあの映像は正気を逸した「いじめ」です。それを周りの教師はただ眺めていただけなのでしょうか。報道によりますと、上司である校長にも訴えていたようですが、それほど深刻であったなら、周りの教師もわかっていたはずです。それなのにも無関心だったのでしょうか。

そもそも論になりますが、教師の世界は「働き方改革」が真っ先に行われるほど忙しいと言われています。そのような労働環境で「いじめ」をする余裕などあったのでしょうか。このような事件が起きますと、教師の世界の労働環境の実態についても考えさせられてしまいます。

それをさておき、教員や消防士以外にも警察や自衛隊などでも「いじめ」が原因で自殺したニュースが報じられています。そうした事件でいつも僕が思うのは、同僚が「いじめ」を受けていたとき、「同僚はなにをしていたのか」ということです。

苦しんでいる人がいたなら、助けるのは「人間としての務め」です。教師の世界なら、子供たちにそうしたことを教えるのが使命のはずです。それをしなかったというのなら、周りの教師は「人間としての務め」を放棄していたことになります。こうした人は教師になる資格がありません。

昔から、「犬が人を咬んでもニュースにならないが、人が犬を咬むとニュースになる」と言われていますので、ほとんどの教員や消防士や警察や自衛隊の組織では「いじめ」など起きておらず、「いじめ」が起きている組織のほうが少ないのは想像ができます。しかし、少ない例ではあろうとも起きているのは事実です。

かつてニューヨークは犯罪都市として有名でしたが、それを蘇らせたのが当時の市長ジュリアーニ氏が実践した「割れ窓理論」と言われています。「割れ窓理論」とは「割れた窓をそのまま放置しておくと、やがて他の窓もすべて壊されるというもの。つまり、軽い違反や乱れを見逃していると、住民のモラルが低下し、環境の悪化や犯罪の多発に繋がるという考え方」です。

「いじめ」も同様です。全体からすると「いじめ」があるのがわずかだとしても、そのわずかをなくしていくことがとても大切です。「いじめ」で苦しむ人がゼロになるような社会を目指すことが大人の責任です。

でもぉ、、、、難しいのは「いじめ」と感じるのが個々人によって違うことなんですよね。

もしかしたら、安倍首相は自分が「いじめられている」と思っているのかもしれません。

う~ん、悩みは深い…。

じゃ、また。




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