<神通力>

pressココロ上




先週はメジャーリーグの大谷選手の神がかり的な活躍から書き始めましたが、今週も引き続きスポーツ選手の話題からはじめたいと思います。

今週の主役はバドミントンの桃田賢斗選手と卓球の伊藤美誠選手です。桃田選手の絶頂期はほかの選手を「全く寄せつけない」という表現がふさわしいほどの強さを誇っていました。ネット際での柔らかいタッチは素人の僕が見ていても惚れ惚れするほどの感動的テクニックでした。

しかし、昔から「好事魔多し」といいますが、その絶頂期に賭博事件を起こし謹慎する事態となってしまいます。それでも謹慎が解けたあとは自らを反省し元の活躍に戻っていたのですが、またもや「好事魔多し」に襲われます。今度は自らに責任は全くない交通事故に見舞われてしまったのです。

その事故により右眼窩底骨折という重症を負ってしまったのですが、当時の報道では「シャトルが二重に見える」などと伝えられていました。結局それ以降は事故の後遺症のせいか以前のような成績を残せなくなっていきました。その頃の試合を映像で見たことがありますが、昔の強さの面影を感じることはできませんでした。

桃田選手の真骨頂はネット際の柔らかいタッチでしたが、そのテクニックで相手選手に劣っていたのがとても衝撃的でした。絶頂期の桃田選手は、相手選手のどんなにすごいスマッシュでも素早い反応で拾い、逆に相手選手が想像もしない方角への返しを余裕でやっていました。しかし、絶頂期を過ぎた桃田選手からは昔の神通力はなくなっていました。

絶頂期の伊藤美誠選手も他を圧倒するような実力を示していました。実は、スポーツニュースでしか卓球を見ることはないのですが、伊藤選手の強さも桃田選手同様、ほかの選手を圧倒していたような印象があります。同年代のライバルには平野美宇選手や早田ひな選手などがいますが、絶頂期の頃はライバルよりも頭一つ秀でていた感があります。

ところが、昨年あたりからは早田選手、平野選手に後れをとっている報道を目にすることが増え、かつての絶対的な強さは影を潜めています。こうした状況は伊藤選手の不調も理由のひとつでしょうが、平野選手や早田選手が力をつけてきたことも理由のように思います。

この3人の実力が拮抗してきた一番の理由として僕が上げたいのは「神通力」です。平野選手や早田選手が伊藤選手に全く歯が立たなかったときは、二人が伊藤選手の強さを意識しすぎていたからです。つまり、戦う前から心理的に負けていたことになります。伊藤選手の側からしますと、相手選手に絶対的な強さを事前に思わせていたことが、相手の力を弱める効果になっていたように想像します。

勝負事では相手に対する心理的な要因が勝ち負けの大きな割合を占めることがあります。昭和時代のスポーツと言いますとプロ野球ですが、当時の一番のスラッガーといいますと長嶋茂雄選手と王貞治選手です。今の若い人でも名前だけは聞いたことがあるでしょう。

この二人は屈指の強打者として鳴らしていましたが、特に長嶋選手には「長嶋ボール」というものがありました。例えば、ストライク・ボールの判定で際どいときは長嶋選手の判断をそのまま審判が受け入れて判定することです。また、バットを「振った・止めた」の判断も長嶋選手が「止めた」という素振りをすると、そのまま「止めた」と審判が判定を下すこともあったそうです。

同じことが相手投手にも起こります。強打者という思い込みが相手投手の心理的不安となり、投げる前から気持ちで負けるという状況になるのです。新人投手であったならなおさらで、そうした恐怖心が無意識のうちにど真ん中にボールを投げ込む心理に追い込まれてしまいます。

こうしたことが起きるのも、長嶋選手が一流の選手で「判定間違うはずがない」とか「どんなボールも打ってしまう」という事前の刷り込みがあったからです。人間の心理、それに伴う振る舞いは外的要因に大きく左右されることが多々あります。僕が社会人になりたての頃に読んだ本で印象に残っている文章があります。セールスについて書かれた内容でしたが、その中に「大きな門構えの家と長屋の家では呼び鈴を押す際の心理的負担が全然違う」ということが書いてありました。

確かに、ベテランであるなら慣れているでしょうが、新人のセールスマンでは大きな門構えの家にはどうしても気後れしてしまいます。同じようなことがビジネスマン社会でもあります。昨日、「騙し絵の牙」という映画を観たのですが、これは出版界の内情を描いた映画でした。その中で中堅社員が幹部の人たちを指す言葉として「上階の人たち」という表現を使っていました。つまり、上階の人たちは自分たちとは一段階上の上級の人たちというのを揶揄した言い方です。

偉い人が上階に陣取り、廊下には高級じゅうたんを敷き詰めているのは、上級の人たちという刷り込みを一般社員たちに植えこむ効果があります。「偉い人」というのは当人が言うのではなく、周りの環境が「偉い人」と思わせることで完成します。

かつてオウム真理教という社会を揺るがせた事件を起こした新興宗教がありました。その教祖になっていたのは麻原彰晃という人物でした。周りの幹部の人たちは尊師と呼んでいましたが、麻原彰晃が教祖になり得たのは周りの幹部の人たちが教祖としてまつりたてていたからです。そうすることによって一般の信者たちは尊師を絶対唯一の存在と思いこまされていました。

しかし、逮捕後にニュース映像に映し出された麻原彰晃は教祖でも尊師でもなく、単なる不潔そうなおじさんでしかありませんでした。まつりたてる人たちがいないのですから、当然です。また、「肩書きが人を作る」とも言いますが、これも周りの人たちの対応が影響しています。

議員を揶揄する言葉としてよく言われるのが「猿は木から落ちても猿だが、議員は選挙で落ちるとただの人」という格言です。偉い肩書きがありますと当人はなにも変わらないのに勝手に周りの人たちが「偉い人」と思い込みます。肩書きは、教祖を周りの人たちがまつりあげることと同じ効用があります。

このように、「偉い人」たちというのは周りの人たちの対応によって作られていきます。こうしたときに一般の人たちが気をつけなければいけないのは、「偉い人」を勝手に「人格者」と思い込まないことです。今、ニュースでは「宗教2世」が問題になっていますが、「2世」を苦しめているのは、宗教の教祖を「偉い人」=「人格者」と思い込んでしまっている「2世の親」たちです。

今、「人格者」と書きましたが、これは「教祖」と書き換えることもできます。僕は宗教を否定するわけではありませんが、「教祖」を「神」と同じように考えるのには賛成できません。人間が「神」になることはないはずからです。

「神通力」は当人が発揮するのではなく、周りの人たちが作っていることを頭の隅に置いておきましょう。「神通力」に騙されてはいけません。

じゃ、また。




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