<ノイジーマイノリティ>

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<ノイジーマイノリティ>
今から40~50年前に若者だった人たちから絶大な人気を誇っている山下達郎さんさんのラジオでの発言が炎上しています。普通、「炎上」といいますと、ツイートの投稿に対しての反応だと思いますが、達郎さんの場合は「ラジオの発言」であることがほかの「炎上」と違っている点です。

達郎さんはSNSをやっていないそうですので、達郎さんの「炎上」は周りの人たちが勝手に燃えさせていることになりますが、基本的に僕は「炎上」に対して疑問を持っています。僕も一応は「ツイッター」を活用していますが、それほどSNSに詳しいわけではありません。ですので自分の考えが正しいのか自信はありませんが、マスコミなどで報じられている「炎上」に対して心の底から信用することができないでいます。

どこが信用できないかといいますと、「本当にたくさんの人が誹謗・非難をしているのか?」という点です。この疑問の肝は「たくさん」の部分なのですが、一部の人が複数のアカウントを作ったり仲間内で連携などして、あたかも「たくさん」の人の意見のように装うことは可能です。

SNSに詳しくない僕でさえ、そのように推測できるのですから、ネット関連に従事している人たちは僕以上にそうした可能性を熟知しているはずです。そうであるにもかかわらず、ネットのポータルサイトなどで「炎上している」と伝えているのは、僕からしますと「炎上」させている人と共犯といってもいいように思います。「炎上している」と報じないことが「炎上」の抑止力になるとも思っています。

今週のタイトル「ノイジーマイノリティ(英語: noisy mainority)」とは、「声だけ大きい少数者集団のこと」ですが、僕には「炎上」と言われているものの半分は、「ノイジーマイノリティ」ではないか、と疑っています。そして、達郎さんの「炎上」はまさに「ノイジーマイノリティ」の一つだと推測しています。

僕がそう思う理由は、達郎さんのラジオの発言で最も批判・非難の対象になっている部分が「~そういう方々には僕の音楽は不要です」と突き放した発言に対してだからです。今の達郎さんを取り巻く炎上状況を僕なりに判定しますと、やはり達郎さんのほうが不利です。松尾氏という方を僕は存じませんが、妻によりますとテレビ番組「関ジャム」にもたまに出演しているそうですし、メディアを知り尽くしている感があります。

松尾氏が発する情報を見ていますと、今の時代のメディアの扱い方が、松尾氏のほうが一枚も二枚も上手なような印象を受けますので、達郎さんのほうが「不利」と思っています。達郎さんが自らの考えを言えば言うほど、松尾氏の手中のドツボにはまっていくように見えますので、ここはいったん引いておくのが正解ではないでしょうか。

そうしたネット界隈の反応はひとまず置いておくとして、僕は達郎さんの「不要でしょう」発言は「どこが問題なんだ?」と思っています。そもそもこの「不要でしょう」という発言をネットでは「嫌なら聴くな」と印象が悪くなるような表現で報じています。こうした報じ方自体に、僕はネットマスコミの悪意を感じています。

「不要でしょう」を「聞きたい人だけに聞いてほしい」と伝えるのと「嫌なら聴くな」では印象が全く変わってきます。マスコミが「嫌なら聴くな」という表現を使ったこと自体にマスコミが達郎さんに対して批判的な考えを持っていることを示しています。このマスコミの考えのさらに先には、アーティストに対するマスコミの横柄さがあるように想像してしまいます。

極端な言い方をしますと、アーティストをマスコミの管理下に置きたいという思いです。一見すると「ファンを大切にしてほしい」という思いのようですが、その裏にはマスコミの優位性を誇示しようという意図が感じられます。

達郎さんは決して「嫌なら聴くな」などとは言っていません。よく「一部の発言を切り取る」などと表現することがありますが、勝手に「切り取る」ことでイメージを操作しようとしているように見えます。その意味で、マスコミはある人物の「人となり」を伝える権力を持っているといえます。

百歩譲って「嫌なら聴くな」という気持ちだったとして、それのいったいどこが問題なのでしょう。自分の作品もしくは自分という存在を嫌いな人に、首根っこを押さえつけて「好きになれ」などと強要することはできません。ですから、「嫌なら聴くな」で全く問題はないはずです。

達郎さんと同年代の大物ロック歌手Yさんはレストランでサインを求められた際、プライベート中なので断ったところ、「ファンを大切にしない」とクレームを言われたそうです。それを聞いてYさんは「おまえ、もうファンをやめろ!」と言ったそうですが、お客様は神様とばかりに、ファンだからといってアーティストを自分たちの望みどおりにさせる権利などありません。

やはり同年代の「日本のシンガーソングライターの草分け的存在」とか「フォークの神様」と呼ばれていたYさんは、「結婚しようよ」が大ヒットしたあとフォークのフェスティバルに参加したとき観客から「帰れ!」コールを浴びたそうです。当時、フォークは一部の若者たちだけのものであり、ヒット曲を出す人は「裏切者」とみなされていたからです。

しかし、その後のYさんの活躍はご存じのとおりで、後年「マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手」とまで評価される押しも押されもせぬ大御所になっています。

今回の「達郎さん炎上発言」をネットマスコミは批判的な論調で報じていますが、聴きたい人だけが聴いて、そうでない人は「聴かなくていいですよ」は、アーティストの純粋なそのままの気持ちです。中には世間・世の中におもねて、「ヒット狙い」で作品を作る人もいるでしょうが、そうした人はおそらく「嫌なら聴くな」の気持ちにはならないでしょう。あくまでアーティストそれぞれの生き方・人生観の問題です。

そして、それを受け入れるかどうかを決めるのは世間であり、世の中であり、ファンになる方々です。1980年頃、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本がベストセラーになりました。タイトルどおり、当時の日本は高度経済成長の真っただ中にあり、日本の経営を称賛する内容が書かれている本です。

そうしたご時世でしたので日本の自動車メーカーも米国へ進出するようになり、米国に工場を作っていました。米国で工場を作りますと当然米国人を雇用することになります。そうなりますと、効率的な工場運営をするために日本流のやり方を現地の人たちに身に着けさせることになります。一例が制服だったり決められた帽子をかぶったりすることでした。

そんなある日、工場責任者が従業員に「会社を成長させるような気持ちになって働いてほしい」と訓示を述べました。すると、労働組合の責任者は「制服を着させたり決められた帽子をかぶらせるのはいい。だが、気持ちまで押しつけるな!」と反論したそうです。

今のSNSに関連する「炎上」を見ていますと、自分たちの意見や主張を押しつけているように思えて仕方ありません。しかも、押しつけている人たちの人数・規模も多いのか少ないのか、その裏付けはなにもないのです。そうした声に押しつぶされて自らの存在を消すことがあってはいけません。

ノイジーマイノリティに惑わされる人がいなくなりますように。

じゃ、また。




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