大阪なおみ選手が「全米オープン」で優勝しました。2年ぶりだそうで、前回優勝のときは準優勝したセリーナ・ウィリアムズ選手が審判と揉めたことにくわえ、セリーナ選手のファンから大ブーイングを浴び、大阪選手は涙を見せました。
その涙を見て、反対にセリーナが大阪選手を励ます光景がありましたが、そうした一連のことがスポーツの素晴らしさを醸し出してもいました。セリーナ選手はのちに雑誌上で謝罪までしています。しかし、その謝罪に対して評価する声と評価をしない声とで賛否が分かれていました。人間の考えは本当に千差万別です。
スポーツと政治の関係に対しても同様で、いろいろな考えの人がいます。スポーツの祭典で最も大きなイベントはオリンピックですが、そのオリンピックは憲章において「オリンピックに政治を持ち込むことを禁止」しています。
今年はコロナの影響で東京オリンピックが延期になりましたが、今年1月に国際オリンピック委員会は「東京オリンピックでは政治的なメッセージを発する行為に対して罰則を課す」と発表しています。スポーツと政治を切り離す方針を強化したことになります。
これまでにオリンピックの場を政治的なメッセージの発信の場にしたことは幾度かありました。僕が初めて抗議する姿を見たのはメキシコオリンピックです。金メダルと銅メダルを獲得した米国籍の黒人選手が「黒人差別に抗議する意図」で表彰式の台の上で黒い手袋をはめた右手を突き上げていました。新聞のスポーツ欄で大きな写真を見たのですが、子供心にその影響の大きさを感じました。この2人は規則違反で大会から追放されたそうです。
最近で言いますと、2016年リオデジャネイロ・オリンピックでは銀メダルを獲得したエチオピアの男子マラソン選手が「両手でばつ印を作り高く掲げ」ながらゴールしました。自らの出身部族が弾圧されていることに抗議する意味があったそうですが、同選手は「殺されるかもしれない」とまで語っていました。
オリンピックが「スポーツに政治を持ち込むこと」を禁じている理由は、「オリンピックは世界中のアスリートたちが、平和と調和の元に集まる場所」であり、「オリンピック開催地、オリンピック村、競技場を中立でどんな政治的、宗教的、民族的な抗議活動がないものにすべきである」という考えからです。
大阪選手は全米オープンの前哨戦となる試合で勝ち進んでいたにもかかわず、棄権を表明しました。理由は、ちょうどこの時期に米国で警察による黒人への暴力事件が多発していたからです。白人警官が黒人容疑者に至近距離で背後から7発も銃撃する事件も映像とともに報じられていました。この事件に対して野球やバスケットボールやサッカーなど各スポーツ選手が抗議の意味として試合をボイコットする動きがあり、大阪選手もそれに追随したようです。
大阪選手は「アスリートである前に黒人女性」と語っていますが、この考えはオリンピック憲章とは相いれない考え方です。オリンピックが「政治的メッセージの禁止」をする意図と目的も表面的には正論のように感じます。もし、すべての政治的メッセージを認めてしまうなら、大会はおそらく大混乱に陥るでしょう。それどころか、開催さえ危ぶまれるはずです。
しかし、そもそも論で言いますと、オリンピックに出場する選手はともかく、開催する国家は「世界に政治的メッセージを発すること」が目的であり、理由です。あの悪行の限りを尽くしたナチスも国威発揚の場としてオリンピックを利用しました。そのほかの国にしても自国の経済的成功を世界に向けて誇示する目的があります。また、経済発展の起爆剤にするという役割を求める場合もあります。
日本に当てはめますと、前回1964年の東京オリンピックはまさに「世界に日本の戦後における経済復興をアピールする」のが目的で、今回の東京オリンピックは停滞している日本経済の起爆剤にするのが目的です。
このように「そもそも論」で言いますと、オリンピックは以前より政治的メッセージを発信する場でした。そうした中で、選手のみに政治的なメッセージの発信を禁止するのは矛盾しているように感じます。
1989年に東西の壁が崩壊し冷戦が終了しましたが、そのあとに東側陣営のスポーツ界の実態が明るみに出ました。そこには国家に管理された選手たちがいましたが。中には薬物によって管理される選手もいたようです。このように国家に管理された選手の場合、出場すること自体が政治的メッセージになってしまいます。自らが知らない間にメッセージを発していたことになります。
国家に管理された選手が優勝をして、それで純粋なスポーツと言えるのか疑問です。オリンピックがスポーツを健全なものにしたいなら、選手たちを取り巻く環境にも踏み込む必要があります。そうでなければ公平な競争などできません。ドーピングで能力を高めた選手と正しい練習を積んだ選手が競争する大会は健全な競争ではありません。
東側陣営の選手たちは正しい知識や情報を与えられずにドーピングを強要されていたようですが、仮にドーピングをさせられていた選手が公の場で真実を暴露するなら、それは称賛されるべき行いです。その意味で言いますと、自国において出身部族が迫害されていることを訴えたエチオピアのマラソン選手も称賛されこそすれ罰せられるのではあまりに不公平です。
このコラムで幾度も取り上げていますが、「戦争広告代理店」はボスニア紛争のある一国が自らを弱者として世界にアピールするために契約した広告企業について書かれた本です。企業に限らずあらゆる組織団体は世界にアピールすることなく成功することは不可能です。世界にアピールすることこそがなににおいても第一歩です。
オリンピックは世界にアピールする最適な場です。しかし、オリンピックにおいてそれぞれがアピールをしてしまいますと、アピール合戦になってしまい、純粋な競技でなくなってしまいます。
繰り返しになりますが、だからと言って、立場の弱い人たちが自らの窮状を世界にアピールできる場はオリンピックくらいしかありません。大阪選手が訴えた「アスリートである前に黒人選手」という言葉が言いたいことは「アスリートの前」に個人という人格があるということです。その人格を守るのは人権です。
答えはこれです。オリンピックでは政治的メッセージは禁止でもいいですが、ただ一つ発してよいメッセージを許可するのです。それは「人権」です。「人権が守られていないときのみ抗議をしてもよい」と決めればよいのです。こうするなら迫害されていたり差別を受けている人たちを救済することにつながりますし、本来の健全なスポーツの姿になるのではないでしょうか。
じゃ、また。