<ある日の出来事>

pressココロ上




 現在、日本では少子化が社会問題になっています。政府の発表では出生率が2人にも満たないようですが、今後人口が減るのは困ったものです。しかし、僕が店の前の光景を見ている感じでは、発表とは違う印象を受けます。
 僕の印象では、赤ちゃんがたくさん生まれているのです。店の前は女性も通りますが、その中で結婚していそうな女性の方々のお腹が次々に大きくなっています。また、既に小さなお子さんがいるお母さんが二人目を妊娠している風景もよく目にします。中には3人目4人目という方もいて、驚かされることもしばしばです。
 たまに買いに来てくださる女性がいました。ご主人と歩いている姿も見かけていましたので既婚者であるのはわかっていました。その女性も7月に入ってからお腹が目立つようになり妊娠しているのがわかりました。
 ある日、買いに来たときに、「予定日はいつですか?」と尋ねてみますと、8月の中旬と教えてもらいました。先日のコラムに書きましたように、僕も誕生日が8月です。また、娘も息子も8月ですので、我が家は妻以外は全員8月生まれです。
 この統計から導き出される答えは、8月生まれの人は「善人が多い」ということです。その証拠に妻は8月生まれではありません。
 それはともかく、8月中旬に生まれるということでしたので、僕は女性に言いました。
「もし、我が家の誰かと同じ日に生まれたら、なにかの縁ですので、好きな商品をプレゼントしますから、是非、おっしゃってください」
 女性は、微笑みながら「わかりました」と帰って行きました。
 8月も中旬になり、女性をなんどか見かけましたが、まだ産まれている気配はありませんでした。お腹が大きいままだったのです。そして、8月も終わりに近づいた頃、女性を見かけなくなりました。「いよいよ、出産のために入院したんだね」と妻と話していました。
 9月に入ったある日の午後。
 店内で作業をしながら、ふと外を見ますと、道路を挟んだ反対側に立つマンションの端から、赤ちゃんを抱っこしているあの女性の姿が目に入りました。「とうとう産まれたんだな」と心の中で呟きながら女性のほうを見ると、女性も僕にそれとなく「産まれたこと」を知らせる意図があるような歩き方をしています。僕の視界に入るようにマンションの端をゆったりと行ったり来たりしていたのです。しかも、たまに店のほうをチラチラ見ているようにも感じました。
 しかし、あまり凝視するのも失礼なような気がして、僕は女性のほうを見るのを止め、作業を続けました。少しして、マンションの端を見ますと、そのときはもう女性の姿はありませんでした。
 それから数分後、僕が冷凍庫に上半身を突っ込んで作業をしていますと、女性の声がしました。
「すみません」
 僕が身体を起こし、店先を見ますと、あの女性が立っていました。僕は笑顔で答えました。
「ああ、産まれたんですね。おめでとうございます」
 女性もうれしそうに話し、しばらく出産談義に花を咲かせていましたが、タイミングを計るように女性が言いました。
「あのぉ、お願いがあってきたんですけど…」
 女性は、申し訳なさそうに続けました。
「実はさっき、部屋の中になんか変な虫みたいのを見つけて…、小さかったら自分で取れるんですけど、なんか大きくてなんだ分からないし不気味で…。それで、どうしていいかわからなくて…。ホントに申し訳ないんですけど、取っていただけないでしょうか」
 僕はそのとき、ひとりで営業していたのですが、たってのお願いです。僕は、了承しました。
 女性がマンションの端を行ったり来たりしていたのは、僕に「お願いしようかしまいか」迷っていたのです。たぶん、大分逡巡したのでしょう。それを思うと、断ることなどできるはずはありません。
 店を一時閉め、女性の家に向かうことにしました。女性の話だけでは、どんな物体か想像がつきません。一応、大きめのレジ袋を数枚手にして僕は女性のあとに続きました。
 家はマンションの奥にあるアパートの一室でした。女性は歩きながら「ご面倒をかけてすみません」となんども詫び、そして得たいの知れない物体について話し続けていました。
 玄関前に着き、ドアを開けながら女性は呟きました。
「まだ、いるかしら…」
 女性に促され玄関の中に入ると、そこは台所でした。女性の話では、得たいの知れない物体は居間にいる、とのことでした。女性は、台所と居間を区切っているふすまを指差しながら、先ほどと同じ台詞を口にしました。
「まだ、いるかしら…」
 女性はゆっくりとふすまに手をかけ、恐る恐る開けながら居間を覗きこみ、そして言いました。
「…あっ、まだいます」
 女性が後ずさりをするのに合わせて僕は居間を覗き込みました。背中越しに声が聞こえました。
「時計の下…」
 居間の外に面している壁の中央に柱があり、柱の天井から30cmほど下のところに時計がかかっています。得たいの知れない物体はその時計の下で柱に張りつくようにくっついていました。確かに、「得たいの知れない」といった感じで、黒ずんだグレーで大きさは直径5cmくらいで円形のような物体に見えます。一見したところ、亀のように見えなくもありませんが、しかし、亀が柱に張りついているのは、どうみても現実的はありません。それに、亀の甲羅のような堅い感じはせず、なにかしらヌメッとしているように感じました。
 僕は、その物体に悟られないように忍び足で柱に近づきました。その間、グレーの物体は微動だにせず、固まったままでした。なおも、僕は近づきました。すると、その物体が少し左に動いたのです。僕はさらに物体に近づきました。そして、柱の下まで行き、50cmほど離れたところから目を凝らして見ました。すると、物体は毛のようなもので被われていることがわかりました。僕は背伸びをしてさらに30cmくらいのところまで顔を近づけました。そして、僕は確信しました。その物体を被っているのは間違いなく毛です。そして、それが円形でないこともわかりました。離れた位置からは円形に見えましたが、実際は、その物体が身体を丸く縮めている姿でした。そのとき、僕はすぐにある生物が思い浮かびました。
 コウモリだ。
 我が家でも雨戸にコウモリが巣を作っていたことがあり、その退治でコウモリと格闘したことがあります。その経験から、すぐにコウモリが思い浮かんだのですが、見たことがない人ではわからないように思います。
 僕は、女性のほうに顔を向けて言いました。「これ、コウモリです」。
 結局、このコウモリは僕が捕まえようとする前に鴨居の奥のほうに逃げてしまい、捕まえることはできませんでした。椅子に上って、鴨居の中を見ましたところ、そこは壁に隙間が5cmほどもあり、その隙間から部屋のほうに侵入してきたようです。一般の家は内壁と外壁の間に空間があるのが普通で、たぶん、その空間に巣を作っているのでしょう。
 僕は、それ以上は対処のしようがありませんので店に戻りましたが、女性からは「なにかわかっただけで安心しました」というお礼の言葉をもらいました。
 その日の営業時間を終え、片付け準備をしていますと、昼間の女性のご主人がやってきました。いつも遠目からしか見たことがないご主人でしたが、近くで見ると秋元康さん似の優しそうな方でした。
 ご主人の話では、僕が帰ったあとも、たまに鴨居の中からコウモリは顔を覗かせていたそうです。しかし、奥さんもコウモリとわかってからはそれほど気持ち悪くは感じなくなったそうです。僕はその話を聞いてコウモリに親近感を持ちました。
 皆さんも想像してください。コウモリが鴨居に両手で掴まり顔だけ出している姿…。なんか可愛いですよねぇ。
 店を営んでいますと、いろいろなことがあります。
 ところで…。
 9月に入り、東京は少しばかり暑さが弱まったように感じます。夜になりますと、風も一頃のような蒸し暑い風ではない涼しい風が吹くようになりました。このようにして少しずつ、秋の気配が強まってくるのでしょう。
 当店は、店先を開けっぱなしにしていますので、虫の侵入を防ぐことは不可能です。ですが、やはり、虫があまりに侵入してくるのは困りものです。そこで、当店では「虫が近寄らないような虫除け剤」を店頭に吊るしていますが、それだけでは足りません。ですから、そのほかに「ハエ取り紙」のような「粘着性のある紙」を店内の数カ所に設置しています。これは意外と効果がありまして、たくさんの虫が粘着紙に貼りつかされています。虫にしますと、軽い気持ちで紙に足や手を触れただけで自由を奪われるのですからかなりショックなはずです。
 先日、少し大きめの虫が侵入してきました。ちょうど蜂くらいの大きさですが、虫の種類まではわからず、ちょっと不気味でした。その虫を目で追っていますと、かわいそうに粘着紙に足をつけてしまいました。そうなりますと、虫としても焦りますから必死で逃れようと暴れまわります。しかし、暴れれば暴れるほど、足以外の羽や身体の一部も粘着紙にくっついていきました。それでも、諦めることなく、必死にもがいています。
 しばらく虫の暴れる様子を見ていた僕は、なんだか気の毒なように思えてきました。そこで、逃がしてやることにしました。そのためには、虫に触れる必要がありますが、なんの虫かわかりませんし、下手に触れて刺されたり噛まれたりしては堪りません。そこで、割り箸で摘んで粘着紙から引き離すことにしました。
 割り箸で虫の胴体を挟もうとするのですが、僕を敵と思っている虫は僕に敵意を剥き出しにして、なおさら暴れました。
 海などで溺れている人は、必死でもがきますので救助に向かう人は必ず後ろから接近するのが鉄則だそうです。正面から接近しますと、救助の人が溺れている人に強い力で抱きつかれたりして、救助どころか、双方が溺れることがあるそうです。
 そんなことを思い出しながら、虫をなんとか救助しようと箸で胴体を摘みました。そして、粘着紙から引き離そうとしたのですが、虫が暴れますので、とうとう胴体部分だけを引き剥がすことになり、足のなん本かと羽のほとんどは粘着紙に貼りついたままになってしまいました。
 それでも、一応は自由になったのですから、僕は箸で摘んだまま外に出て放り投げました。
「さあ、これで君は自由だぞ…」
 ところが、放り出された虫は飛ぶことができず、そのまま地面に落下してしまいました。そうです。羽のほとんどを粘着紙にもがれてしまっていたからです。地面に落ちた虫はそのまま身体を振るわせながらどこかに消えて行きました。
 政党にしろ企業にしろ組織に属している皆さん、くれぐれも組織に羽をもがれないように気をつけましょう。
 じゃ、また。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする