<オフレコ>

pressココロ上




 先週のニュースで僕は「品」について考えました。これは「しな」ではなく「ひん」です。田中防衛局長も一川防衛大臣も「品」がありません。両氏からは「品性」のかけらも感じられせん。
 コトの発端は田中局長の発言でした。
「これから犯す前に犯しますよと言いますか」
 この言葉遣いは、誰がどう考えても不謹慎と感じるものです。それをオフレコとはいえ「口にする」感覚は批判されても当然です。田中局長の経歴を見ますと、防衛関連が長いようですから、沖縄問題に精通していると考えられます。それにも関わらず沖縄県民に留まらず誰もが怒りを感じるような発言をしたことが僕には不思議です。先ほど「誰が考えても」も書きましたが、「誰」には田中防衛局長も含まれているはずです。そこで、なぜこのような発言をしたのかを想像してみたいと思います。
 我が家は現在、朝日新聞を購読していますが、朝日ではこの事件を慎重に報道している感じがあります。それは、この懇談会での田中局長の発言を「直接には聞いてない」「その場に居合わせなかった」と断っている記事だからです。これはテレビ朝日の報道ステーションでも同じでした。この報道のやり方は見方を変えるなら、この発言が事実であるかどうかの判断をしていないことでもあります。つまり、発言の信憑性に疑問符がつくことです。
 しかし、この報道に対して田中局長が公然と反論していないところをみますと、作り話ではないことが想像できます。テレビカメラに追いかけられる田中局長の表情からは「反論しても仕方ない」といった雰囲気がでていたように思います。
 真実かどうかで、引っかかることがあとひとつあります。当初、田中局長の発言は「犯る前に…」と新聞では報じられていました。これを読むと「やる前に…」です。ですから、田中局長も「犯る前」の意味ではなく、アセスメントの提出を「やる前に」の意図だった、と反論している時期もありました。
 しかし、この反論もマスコミ世論の批判・非難の嵐の前に打ち消されてしまったようです。しかも、いつの間にか田中局長の発言は「犯る(やる)」ではなく「犯す(おかす)」という表現に変わっていました。もちろん、僕はどちらが真実か知る由もありませんが、どちらが真実であろうと現在の流れを変える決定打にはなりえませんから真実の是非を追究することは意味のないことかもしれません。
 次に、「なぜ、脇が甘かったのか?」を考えてみたいと思います。
 田中局長があからさまな反論をすぐにあきらめたのは、自らの脇の甘さを自覚したからだと想像できます。オフレコであろうと「煙の立つ」発言をした「脇の甘さ」です。事件後のいろいろなマスコミの報道を見ますと、実際に田中氏の発言を直接耳にした記者は少ないようです。その事実からしますと、余計に「煙の立つ」状況の中で発言したことの脇の甘さを指摘せずにはいられません。
 ネット情報を見ますと、田中局長の発言を報道したのは地元の新聞社でしかも「左より」の傾向がある新聞社のようでした。田中局長は「オフレコ」という言葉にあまりにも気を緩めすぎたようです。
 リスク管理の本などには、トラブルを処理する際に相手側と相対するときは必ず複数で対することを教えています。それは、のちのち「言った、言わない」の争いになったときの防御策になるからです。同じように考えるなら、居酒屋での懇談会といえども田中局長は記者の属する新聞社の社風に配慮する注意深さが必要でした。リスク管理が甘かったといわれても仕方ありません。
 「オフレコ」とは、記事にしないことを前提として本音をマスコミ諸氏に情報もしくはヒントを与えることです。「オフレコ」の長所は表立っては伝えられない真実を、それとなくマスコミ陣に推測させることですが、もちろん一理あれば一害もあります。一理は本音を伝えることですが、一害はマスコミが情報発信者に取り込まれやすいことです。これが行き過ぎると「マスコミとしてのチェック機能」を果たせなくなります。それは即ち、マスコミとしての存在意義さえ失わせることです。
 本来、政治に対するマスコミの役目は政界および政治家を監視することです。マスコミは真実を伝えることでその役目を果たすことになりますが、政治の側に深入りしすぎるとその役目を果たすことができません。オフレコを重視するがあまり、真実を伝えないことに加担しては役目を放棄することになります。しかし、昔の新聞記者はそうすることでジャーナリストとしての価値が高まると考えていた人もいたように思います。最近、巨人軍の内紛劇で批判された渡辺恒夫氏などは中曽根首相のブレーンとまで言われていました。このようなジャーナリストはこれまでにも幾人もいました。
 たぶん…、たぶん…、新聞記者の中には「オフレコ」に参加できることがステイタスシンボルと感じている人もいるのではないでしょうか。僕にはそんな想像もあります。世の中には、有名人と知り合いであることを自慢する人がいますが、同じように政治の世界に深入りすることによって、自らも日本を動かしている錯覚に陥っているジャーナリストがいても不思議ではありません。密室での出来事を取材するうちに密室での出来事に参加しているジャーナリストです。まさしく、ミイラ取りがミイラになった例です。もちろん、ミイラにはジャーナリストとしての資格はありません。
 ジャーナリストの中には、声高には言いませんが、「オフレコ」という前提の発言を報道することを「了としない」考えの人もいるでしょう。もちろん、この考えにも一理はあります。簡単に言ってしまえば、「約束を破った」ことですから信頼関係をないがしろしたことになります。そのような人をジャーナリストとしてより人間として許せるはずもありません。
 しかし、「オフレコ」だからこそ、「本音がわかる」ということもあります。そして、その本音が「権力者の側にいる人間として相応しくない」と判断したなら、そして報道するに値すると判断したのであればやはり「約束を破る」のも仕方ないと僕は考えます。権力の側にいるのに相応しくない人物が権力を持っているのは国民にとって不幸です。
 先月ですが、ジャーナリストの田原総一郎氏が拉致被害者の生存に関する発言を巡る裁判で敗訴しました。この裁判で、田原氏は取材源を明らかにしませんでした。基本的に、報道の世界では、取材源は記者生命に代えても、時には命に代えても守れと言われているそうです。田原氏はそれを実践したのですが、田中局長の場合と対照的です。
 これまでにも、田中局長に限らず、官僚や政治家で「オフレコ」発言が問題視され辞任に至った事例が幾つかありました。それらと、取材源を守るという報道の原則とは矛盾しますが、その判断の基準は「品」ではないでしょうか。その発言に「品」があるかないか。もし、本音の部分で「品」がないなら、「オフレコ」であろうともやはり追求されるべきです。
 それにしても…。
 一川防衛大臣の閣僚としての適性には疑問符がつきます。自民党の佐藤議員に「沖縄の95年の少女暴行事件の詳細」について尋ねられた際の返答です。ニュースなどでは「詳細を知らない」ことが批判されていますが、僕は言葉遣いに違和感を持ちました。
 それは「知らない」という言葉遣いです。あの場面ではやはり「存じ上げていない」が適切なように思います。
 一般人が国会に呼ばれていたのなら、緊張して「適切な言葉が浮かばなかった」ということもあるでしょう。しかし、官僚として30年以上、国会議員として20年以上の経験がある人の言葉遣いとしてはあまりに「品」がありません。
 一川大臣は大臣に任命された際も物議を醸す発言がありました。
「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロールだ」
 きっと、一昔前の時代だったなら、豪放磊落な政治家と評されていたかもしれません。しかし、時代が違います。ちょっとした言葉遣いの不適切さがすぐに批判の的になる時代です。時代の変化に気づかない政治家は間違いなく「オン」と「オフ」を使い分けられないでしょう。
 じゃ、また。




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