<吉田・yoshida>

pressココロ上




 我が家は現在、朝日新聞を購読していますが、その朝日新聞が揺れています。それは報道機関としての存在を脅かすほどの揺れ方です。その揺れ方を象徴するように、先週社長による記者会見がありました。
 しかし、僕のコラムの読者の中には新聞を読んでいない人もかなりいるはずです。昔ほど、若い人が新聞を読まなくなっているからです。これだけ通信手段が発達しメディアが多様化した現在では新聞もかつてほどの影響力を社会に与えなくなっているのが実情です。
 たぶん今から20年前に今回のような朝日新聞の問題が噴きあがっていたなら、それこそ世の中をひっくり返すような騒動になっていたはずです。その意味で朝日新聞は衝撃を免れたといえるかもしれません。
 僕がこのように書きましても、今回の朝日新聞の問題について知らない人もいると思います。ですので簡単に経緯を説明したいと思います。キーワードは「吉田」です。
 まず先週開かれた朝日新聞の社長会見は東日本大震災時に起きた東京電力の原子力発電所に関する報道に関してでした。今回公開された吉田調書によりますと、あの震災時ではあとほんの少しで東日本が壊滅するほどの危機だったようです。そのときに現場で指揮をとっていたのが吉田昌男氏という所長でした。
 震災から3年半経った現在もまだ原発問題は解決していませんが、その一番の理由は原発の処理方法がまだ確定しないからです。なにしろ放射能に汚染された水がまだ依然として放置され海に流れ出ているのですから解決にはまだ程遠いのが現状です。
 そしてこのような惨状を招いた原因を検証する会議が行われ、その際に現場のトップであった吉田氏から話を聞いた内容が吉田調書といわれるものです。当初、吉田調書は吉田氏の意向で公開される予定のないものでした。
 ところが、スクープとして朝日新聞がその内容を報じたのですが、その記事に事実と異なる内容があり、それに対して社長が謝罪することになったのが先週の会見でした。
 話を進める前に、まず「スクープ」について書きます。マスコミなどでよく見かける見出しに「スクープ」という言葉があります。そこで使われるスクープという言葉には「ほかのメディアがまだ報じていない」という意味があります。ここで問題なのは「まだ報じていない」という部分です。
 たまに勘違いしているメディアは「まだ報じていない」という意味を「ほかよりも早く」と考えている場合があります。確かに、メディアという媒体はスピード感が大切ですので「より早く伝えること」は大切な要因です。しかし、「時間的な要因」はあまり重要ではありません。なぜなら、少しくらい遅くとも出来事が報じられるからです。ですから、ほかよりも「早く報じた記事」は本来スクープとはいいません。
 本当の意味でのスクープとは歴史の中に埋もれてしまうものです。公にされるなら社会に重要な影響を与える出来事や、一部の人の意図により社会から葬り去られた事実を報じたものがスクープです。ですから、スクープを勝ち取るために生命を危険にさらさねばならないこともあるでしょうし、膨大な資料を調べるための費用や根気が必要です。だからこそスクープには価値があります。
 さて、僕がわざわざスクープの定義についてページを割いたのは理由があります。それは朝日新聞の方々があまりにもスクープへのこだわりが強すぎると感じるからです。確かにスクープを報じることはとても大切なことですし、記者冥利につきることでしょう。
 ですから、スクープにこだわることは第四の権力とまで言われているメディアに関わっている人たちに共通している意識ともいえます。そして、そうした感覚を突き詰めるならその先にはエリート意識の影が映って見えます。
 どんなに偉い政治家にでもどんなに大きな企業の社長とでも対等に話をできるのが朝日新聞など大手メディアの人たちです。エリート意識が芽生えないほうが不思議というものです。
 社長までが出てきて謝罪会見をした直接の理由は、「吉田調書を伝えた記事に事実と違うことがあった」からです。つまり、嘘の内容を報じたことになります。わざわざ言うまでもありませんが、新聞が事実と違うことを報じるならそれは新聞の価値や意義を失わせることになります。
 では、「なぜ、事実と異なる記事を書いたか」というと記者自身が思い描くストーリーに気持ちが引っ張られたからです。ストーリーはエリート意識と密接に関連しており、自分の思い込みが作り出すものです。この表現が言い過ぎであるなら、「調書内容を読み間違えた」からです。意地悪な考え方をするなら「意図的に読み間違えた」といえなくもありません…。
 僕はラーメン屋時代に幼少期を養護施設で過ごしていた青年を採用したことがあります。わかりやすくいいますと、親に捨てられた経験のある青年です。もうかなり前ですので、記憶が定かではありませんが、確か20代前半の青年だったと思います。
 その青年がある日、「僕、今度朝日新聞の取材を受けるんです」と言いました。話を聞きますと、朝日新聞が特「親に捨てられた子供」について記事にするそうで、その取材ということで記者から連絡があったそうです。
 取材のあとに青年から「記者との話のやりとり」を聞いたのですが、その内容と実際の記事にはかなり齟齬があったような記憶があります。具体的には、記事はできるだけ「お涙ちょうだい」の臭いを漂わせようとする文脈になっているように感じました。芸能週刊誌が特定の芸能人を貶めるために意図的な批判記事を書くのと正反対の構図です。
 そうした僕の経験もありましたので今回の吉田調書に関する記事も「さもありなん」というのが率直な感想です。
 朝日新聞の記事では「東電の現場の人たちが所長である吉田氏の命令に反して退避した」となっていたことが、最も事実と異なった点でした。結局、調書は公開されましたが、その調書を読んだほかのメディアは「現場で働いていた人たちの大半は、命令に反する行動をとっていない」と報じています。このような経緯から朝日に対する批判が高まり、社長謝罪会見に追い込まれたのが真実のようです。
 朝日新聞の社長は、この会見で従軍慰安婦問題についても謝罪しています。朝日新聞は8月5日から6日にわたって従軍慰安婦問題について特集を組んでいましたが、それに対する謝罪です。
 この問題を簡単に説明しますと、先の戦争で日本が国家として朝鮮半島の女性たちを強制連行して従軍慰安婦にしたという証言の信憑性が焦点でした。この証言をしたのが吉田清治氏という方ですが、氏の名前をとって吉田証言といわれています。
 朝日新聞は今から約40年前にこの証言を取り上げ、記事にしましたが、これはつまり証言が真実であると考えていたことになります。それを40数年経って「証言は真実ではなかった」と認めたのが先月の5日と6日の記事でした。
 その後、その対応についていろいろなメディアから批判されたり池上氏から連載の中止を申し入れられたりして、そのようなことから社長が謝罪したわけです。実は、朝日新聞は8月5日と6日の記事で証言の信憑性を否定しておきながら謝罪をしていませんでした。その対応に対しても多くの方面から批判されていました。
 そのことに関しても社長は謝罪したわけです。過ちを認めながら謝罪しない態度はエリート意識のなにものでもありません。結局、編集の責任者である取締りは解任されましたが遅きに失した感は免れません。吉田証言がYoshida証言として世界に与えた影響はあまりに大きくそのきっかけを作った朝日新聞の責任も同様です。
 吉田調書にしてもYoshida証言にしても、報道機関が取り上げ伝えることはとても大きな責任が伴います。中年のおじさんが居酒屋で話したり中年のおばさんが井戸端会議をするのとはわけが違います。その重みをもっと感じる必要があります。
 もちろん、大手メディア企業に勤めているのですから、頭脳的に優秀であるのは間違いありません。しかし、優秀でない普通の人の感性も持ち合わせていることがジャーナリストには必要のはずです。
 ラーメン屋時代にたまに食事に来ていた親子連れがいました。お父さんは30代後半で男の子が小学校低学年といった感じです。このお父さんがほかの方とはどこか違うのです。なんとなく落ち着いたというか大物ふうなというか一言でいうならエリート感を漂わせていました。乗ってくる車もBMWです。別に偉そうに振舞っているわけではないのですが、目つきとかちょっとした仕草が上から目線な臭いがしていたのです。
 そんなある日、たまたま会計を僕がしました。そしてお金を出す際になにげに男性の財布の中をみますと大手メディアの社員証が目に留まりました。ほかの人と雰囲気が違った理由がわかりました。それは自信です。大手でしかも有名で社会的に認められている企業に勤めているという自信です。
 たぶん、そうした自信の裏返しがエリート意識なのかもしれません。でも、エリート意識は事実に対する感性を惑わせる効果がありますので注意が必要です。
 えっ、僕のこの考え方って、エリートに対する穿った見方だって!
 …僕、その指摘に反論しないもん。だって、津波が襲ってきた中での本部のエリート幹部と現場の吉田所長のやりとりを聞いていたら誰だってエリート批判をしたくなるじゃぁありませんか。
 じゃ、また。




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