<あれよ、あれよ>

pressココロ上




 現在、2020年東京オリンピックのメーンスタジアムとなる新国立競技場が問題になっています。それは建設費がこれまでの開催国のものとは比較できないほどの金額になっているからです。これまでの開催国を振り返りますと、2008年北京が約500億円、2012年のロンドンが約850億円、そして来年のリオが約550億円となっています。そうした中で、2020年東京の建設費はなんと3000億円を越える規模で予算を組んでいるそうです。そのあまりの突出した金額が物議を醸しています。
 そして、さらに驚かされるのはその財源が確定していないことです。お金の手当てを考えずに予算を組むのは誰が考えても非常識です。しかも毎年の維持費が30億円とも40億円ともいわれているそうですが、この財源も決まっていません。このような状況で計画を進めようとするのはあまりに無責任です。
 この記事を読んで真っ先に思い浮かべたのは東日本大震災時の復興予算の使い方でした。復興と直接関係のないことにお金が流用されていたのですが、まるで単なる予算の分捕り合戦のようになっていました。例えば、東北から遠く離れた東京の公共建物の修繕や電子書籍の開発などに復興費が使われていました。もちろん流用に際してはいろいろな屁理屈を並べていましたが、どれも説得力のあるものではありませんでした。こうした過去の事例から察しますと、官僚や政治家の方々はお金に関する感覚が一般の人たちとはずれているように思います。
 このように一般の人とは異なる感覚の人たちが考えた計画ですので、無謀な予算規模になったのかもしれません。もちろんマスコミなど世論から批判の声は高まっていますが、改める気配は感じられません。週末になって、ようやく下村文部大臣がこのデザインを決定した建築家に対して苦言を呈していましたが、まだ計画を変更する流れにはなっていません。
 このように多くの国民が反対しているにも関わらず計画が進められる光景を見るのは気分のいいものではありません。世の中には必ず賛成する人と反対する人がいるものですが、多数意見が安易に無視されるのは民主国家とはいえません。独裁国家と同じになってしまいます。
 多数の意見が正しいとは限りませんし、小数意見の尊重も大切ですが、基本は多数意見の考えが反映されるべきです。そうでなければ民主主義の意味がありません。
 この一連の流れを見ていて似たような光景だと感じるのは安保関連法案の国会運営の進め方です。マスコミの予想では今週の15日に衆議院で採決する模様ですが、今回の安保関連法案についてはほとんどの憲法学者が「違憲」と断じており、また国民も大多数の人が反対意見と考えています。そうした中で強引に採決するのは、大げさにいうなら民主主義の否定です。
 安倍首相は安保関連法案に関して反対意見が多いことを認めたうえで祖父である岸信介元首相時の60年安保を引き合いに出しているそうです。僕もテレビなどでしか見たことがありませんが、60年安保のときは学生運動が真っ盛りだったこともあり、国会前にデモ隊が押し寄せるほど反対が強かったようです。そうした状況の中で岸首相が日米安全保障条約を締結したわけですが、安倍首相は「この条約はのちに多くの人に支持された」と語っています。
 安倍首相は今回の安保関連法案についても同じような気持ちで臨んでいるようです。つまり、「現時点では反対する人が多いが、将来は必ず評価される」と思っているのです。つまり、多くの国民の意見より自分個人の考えのほうが正しいと考えていることになりますが、これは民主主義とは異なる政治観ということです。
 民主主義は多数決でものごとを決めるのが基本ですが、先週のギリシャは大切な国の政策を国民投票で決めました。現在、ギリシャは財政が破綻しておりEUの支援なくしては経済が成り立たなくなっています。そうした中でEUから求められている緊縮政策を受け入れるかどうかを国民投票にかけたのでした。結果は「NO」だったわけですが、一般の感覚でいいますと「衆愚政治」といわれても仕方ないように思えなくもありません。
 緊縮政策とは要するに国民に我慢を強いるものですので国民が受けれがたいものです。ですから、「NO]と意思表示するのも当然ですが、しかしそれではEUの支援を受けられず経済的に破綻国家となる可能性が高くなります。つまり、ギリシャ国民は「破綻も嫌だけど、緊縮するのも嫌だ」と考えているわけで現実的ではありません。
 国民投票から数日が経っていますが、現状はさらに複雑になっています。それは「NO」の意思表示を国民に訴えた現政権が、国民投票のあとでEUに対してある程度の緊縮を含んだ改善策を提示したからです。つまり、政権はEUの求めた緊縮政策を拒否はしましたが、ある程度の緊縮はやむを得ないと常識的な判断をしたことになります。
 ところが、この現政権の対応に対して国民が反発をしたのです。国民は一切の緊縮政策を拒否する道を選んだことになります。これはある意味非現実的な考えです。一般家計に例えるなら、収入が少なく借金をしている状況のときはやはり支出を減らすことを考えるのが当然です。ギリシャ国民は、それを拒否したことになります。まさしく衆愚政治です。
 このような一連の流れを見ていますと、ギリシャ国民は無責任な放蕩国民の印象がありますが、それに対してジャーナリストの小西克哉氏は異論を述べています。
 「お金を返済する能力の少ない国家にお金を貸し続けた責任がEUにある」と述べています。また「ユーロという統一通貨で最も得をした独などがギリシャに対して厳しい態度をとるのは間違っている」さらに「かつて独も債務を棒引きしてもらった過去がある」とギリシャを擁護する論を展開しています。
 小西氏の意見が正しいかどうかは別にして、現実問題としてギリシャがEUを離脱して破綻国家になったとき損失を被るのはユーロ圏の諸国並みならず世界的な影響があります。かつて日本も80年代バブルが弾けたあと住専問題が表面化しました。このときにとった政策は銀行に対する融資でした。銀行が倒産しては日本経済が破綻するからです。小西氏は同じ対応を独を中心としたEUの幹部国家に求めたのでした。この考えにも一理あるように思います。
 ギリシャ問題は今後どのように展開するのか予断は許されませんが、国民の意思が国家の進むべき方向を決めていることは評価されるべき点です。それに比べて日本では国民がいくら反対意見を表明しようが、「あれよ、あれよ」という感じで政治家の独断がまかり通ろそうな雰囲気です。
 特定秘密保護法も結局止められず、また今回の安保関連法案も競技場も国民の意見が反映されないのはあまりに不甲斐ない状態です。今は、日本の民主主義の正念場かもしれません。
 じゃ、また。




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