<声なき声>

pressココロ上




 いったいいつになったら世の中からいじめによる子供の自殺がなくなるのでしょう…。僕はこれまでになんどこのコラムで「いじめ自殺」について書いてきたでしょう。本当に悲しく虚しい気持ちにさせられます。
 「いじめ自殺」についてはこれまでにもマスコミなどで大きく報じられてきました。そのたびにいろいろな方策が講じられてきたはずです。それでも「いじめ自殺」はなくなりません。子供はまだ新聞などを読むことも少ないでしょうから「いじめ」のニュースなどを知らないこともあるかもしれません。また、ニュースに接していたとしても自分の身の回りのこととして実感することができないこともあるでしょう。ですから、ニュースなどで報じられても子供同士の間で「いじめ」をなくすことに結びつかないことも想像はできます。
 しかし、大人は違います。社会に対する責任というものがあります。ニュースなどで報じられたときは「いじめ自殺」について真剣に考え、そして敏感になる義務があります。学校関係者であるならなおさらですし、生徒たちと直接接している教師たちの場合は「なおさら」を通り越して使命とならなければいけません。
 ですが、「残念なことに」というか「憤りを感じる」ほど教師としての無能さが露呈する事件が起きてしまいました。岩手県で中2の男子生徒が電車に飛び込み自殺をした事件です。
 このニュースは詳細を知れば知るほど生徒を取り巻く学校関係者の「教育者としての心構えのなさ」、そして担任には「教育者としても感性のなさ」を思わずにはいられません。
 この学校では生徒と担任が「生活記録ノート」という連絡ノートのやり取りを行なわれていましたが、そのやり取りを読みますと担任の教師としての「やっつけ仕事」ぶりが感じられます。そのやり取りからは生徒と真剣に向き合っている真摯さが感じられません。「仕方なく」返事を書いているようにさえ思えるのは僕だけではないでしょう。
 例えば、生徒と担任の最後のやり取りでは生徒が自殺をほのめかす言葉を綴っているにも関わらず、「明日からの研修たのしみましょうね」と返しています。百歩譲って先生自身も心身が疲れていたのかもしれません。ですが、どんなに疲れていようが「自殺をほのめかす」文章に対する返事にしてはあまりにも不適正です。このやりとりはコミュニケーションになっていません。全く見当違いの返事を書いていてはコミュニケーションが成り立つはずがありません。
 どんなに疲れていようが、教師は生徒と接するときは真摯に向き合う心構えが必要です。もし、それができないのであれば教師という職業に就くべきではありません。今回の事件では記録ノートに生徒の本音の一端が綴られていましたが、中には本音を隠し婉曲的にしか表現しない生徒もいるはずです。さらには婉曲的にさえも表現せず、身振りや表情でしか表さない人がいてもおかしくはありません。このような「声なき声」に対しても敏感に感じ取る感性が求められるのが教師という職業ではないでしょうか。世の中には「声を出さない」「声を出せない」子供たちもたくさんいるはずです。
 結局、安保関連法案は衆院を通過しました。憲法学者の大半がこの法案を違憲と表明し、知識人や文化人の多くの人たちも同様の立場をとっています。先週も少し触れましたが、60年安保のときも今回と同じような構図になっていました。安倍首相も当時の岸首相を引き合いに出していましたが、当事よりは今回の反対抗議運動は穏やかな印象はあります。昔のニュース映像などを見ますと、学生運動が盛んだったこともあり多くの国民がデモに参加し機動隊と衝突しているようすは緊迫したものを感じました。
 こうした社会状況の中、岸首相は「デモも参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員で、銀座通りもいつもと変わりない」と語っています。また「新聞だけが世論ではない」「新聞報道には現れない声なき声にも耳を傾けなければいけない」と表立っては見えない安保支持派の存在をアピールしました。
 このあと安保闘争は急速に収束するのですが、岸首相の見立てはまんざら間違ってもいなかったのかもしれません。そうした過去を受けての今回の安倍首相の国会運営かもしれません。しかも今回の抗議運動は昔ほどの大きなうねりにはなっていないように感じます。安倍首相にも「声なき声」が聞こえるのでしょうか。
 そんなことを思っていた矢先に安倍首相は新国立競技場の計画を「白紙に戻す」と発表しました。つい1週間前には「見直しはしない」と断言していたのにも関わらずです。この競技場建設の一番の問題は責任の所在が曖昧であることです。関係者のみんながみんな「自分に責任はない」と主張しています。このような状態で計画が進んできたことに恐怖心さえ覚えます。責任を負わないということはなんと恐ろしいことでしょう。普通の感覚の持ち主なら誰がどう考えても資金の調達先も決まっておらず、また維持費に数十億円も要する建物を計画するのはどうかしています。
 今回の安倍首相の方針転換は支持率を回復させるためといわれています。安保関連法案で支持率を落とし、また競技場建設で落としてはたまらないと思ったのでしょう。決して反対意見の声を尊重しての決断ではないように思います。このことはつまり安倍首相は常に「声なき声」を尊重するわけではないことを示したことになります。その意味でいいますと、やはり声は出しておいたほうがいいということになります。
 それにしても安倍首相の一連の判断を見ていますと、僕は常々指摘していますが、安倍さんの周りのブレーンの感覚の鋭さに感心します。そのバランス感覚です。政権を運営するということは綱渡りの連続ですが、「いい、わるい」は別にしてそのバランス感覚は本当に優れていると思ってしまいます。それを可能にしているのは、やはり「声なき声」を察する感性のように思います。
 では最後に、僕の「声なき声」です。
「安保関連法案が参院でひっくり返らないかなぁ!」
 じゃ、また。




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