<土光さんが泣いている>

pressココロ上




 先週は今一つ体調がすぐれず風邪かインフルエンザかと自分なりに診察していましたが、病院に行くのもどうも面倒に思え自然治癒力で治そうと思っていました。しかし、未だ回復したとはいえない状況です。
 体調うんぬんの前に、基本的な問題として心臓関連の疾患を経験していることと年をとったことによる体力の衰えがあります。若いときのように颯爽とした動きはできなくなり、動くたびに息切れに近いものを感じています。もっと体力をつけねばと自戒をしている今日この頃です。
 人間の「齢を重ねるにしたがって体力が衰える」という摂理を実感したのは、先週書きましたが、石原元都知事の動作の映像を見たからでした。病気をなさったこともあるでしょうが、年齢を重ねたことも大きな要因のように感じました。その石原氏が先週都の百条委員会で答弁をしていました。しかし、その内容には首をかしげたくなることがありました。おそらく多くの人が同じ感想を持ったのではないでしょうか。
 ビジネスマンまたは社会人として「憧れの働き方」は自分は動かず部下に指示だけをする立場になることです。「指示をする」様は勇ましくとても偉そうに見えますし、人を支配している印象を与えます。英雄は人を支配するのが基本的姿勢です。
 僕は普通の会社勤めをした経験が3年少ししかなく、それ以外はずっと個人事業主です。もちろん時にはアルバイトも兼業しています。ですから、会社のような組織で部下を持った経験がありません。裏を返せば、上司としての経験がないことになります。つまり、「自分は動かず部下に指示だけを出す」という経験がありません。英雄とは程遠い状況でした。
 そんな僕でも、若い頃にはやはり「憧れの働き方」を求める気持ちになったことがありました。つまり「自分は動かずに指示だけを出す」ことです。具体的になにをしたかと言いますと、パートさんに仕込みや開店前の準備を任せて自分は全く違うことをすることでした。ときには喫茶店にお茶を飲みに行くようなことさえしました。それが経営者として「かっこいい」と思ったからです。若気の至りと言いますとそれまでですが、浅はかな個人事業主でした。人に指示だけをする立場に憧れていたのでした。
 しかし、そうしたことも一ヵ月もしないうちに「自分の馬鹿さ加減」がわかりました。なんとなく心が落ち着かないのでした。
 石原元都知事は答弁の中で幾度も「部下に一任していた」と答えていましたが、言葉を変えるなら「自分はなにもしていない」ことになります。「一任」とは「丸投げ」と同義語です。「一任」していたから細かなことは「わからない」では、都知事という役職にいる意味がありません。石原氏は一応は「トップとしての責任は感じる」と答弁していますが、その言葉と「部下に一任」発言は矛盾しているように感じます。
 しかし、組織が大きくなるにつれてトップがすべてを把握し理解することは不可能なことも理解できます。では、大きな組織ではトップはどこまで理解し責任を負えばいいのでしょう。
 セブンイレブンの鈴木敏文氏がトップを退任して約1年が過ぎましたが、鈴木氏のトップとしての姿勢にも僕は疑問を感じていました。ついでにいうなら日産のゴーン氏にも同じ気持ちを感じています。
 鈴木氏はイトーヨーカドーの業績が悪い原因を常々マスコミのインタビューで語っていました。しかし、企業のトップは原因を解説するのではなく、解消する処方箋を示すことが役割です。しかし、鈴木氏は処方箋を示すのは担当者の役割を考えていたようです。鈴木氏の言葉を借りるなら「方向を示す」のがトップの役割だそうです。僕は常々この言をとても不満に思っており、方向性だけを示すなら誰でもできることです。なぜなら直接的な具体的な結果が評価されることがないからです。仮に、方向性が間違っていたとしてもいくらでも詭弁を弄して結果責任から逃れることができます。「部下のやり方が悪いから」と言うことができるからです。こうしたやり方は責任を負わなくて済む究極の方法です。経営者と評論家を一緒くたにする逃げのやり方です。
 僕は日産の社長に就任した当初のゴーン氏に対しても似たような感じを持っていました。ゴーン氏はマスコミのインタビューでコミットメントという言葉を頻繁に口にしていましたが、コミットメントとは約束という意味で、要は担当者に結果を約束させそれが達成できないときは降格させるという信賞必罰のシステムでした。のちにこの経営手法は修正されましたが、長い目で見ますと、弊害のほうが大きい手法です。
 企業に限らず組織のトップは問題に対して処方箋を出すことが役目のはずです。そうでないならトップが存在する意味がありません。その意味で石原氏の「部下に一任しているから細かなことはわからない」は都民という納税者に通用する答弁ではありません。
 そもそも論になりますが、在任中石原氏は都庁に週に数回しか行かなかったそうですから、さほど仕事をしていなかったことになります。そのうえに実際の仕事は「部下に一任」していたのですから、普通の感覚で考えるなら「仕事をさぼっていた」ことにほかなりません。そのことについてマスコミやジャーナリストの方々はもっと批判の目を持つべきだったのではないでしょうか。今の小池都知事の忙しさと比較しますと、その乖離に驚かされるばかりです。
 現在、東芝がかなり危険な状況にありますが、最も大きな原因は米国の子会社ウェスチングハウス(WH社)が7000億円という損失を出したことです。しかも一節によりますと、WH社を買収するときに当時の社長は細かな内容について説明をされていなかったそうです。理由は、原子力関係の事業は専門的な要因が多く理解できないからと解説してありました。この報道に関してどこまでを信用してよいのかわりかませんが、大企業になればなるほど扱う業種が広がりますからトップがすべてを把握し理解しておくことが不可能なことは想像ができます。あながち出鱈目でもないように思います。
 僕の年代で東芝の社長と言いますと、土光敏夫氏をすぐに思い起こします。土光氏は1981年に発足した第二次臨時行政調査会の会長を務めた財界人です。土光氏は風貌がお坊さんのようで他を圧倒する迫力がありました。土光さんが東芝の社長に就任したのは東芝が危機に瀕しており、それを再建をするために白羽の矢が立ったからでした。
 土光さんの本を読みますと、土光さんは「偉くなるほど働け!」と喝破しています。実際、土光さん自身も誰よりも早く出社し最後まで残っていたそうです。土光さんの考え方のすべてが今の時代に通用するとは思いませんが、「偉くなるほど働け!」の理念は今でも立派に通用するように思います。
 もちろん、この理念を悪用したブラック企業による名ばかり管理職は論外ですが、役職が上がるほど働くのが企業の本来の姿でなければいけないと考えます。その意味で言いますと、石原氏のような働き方はトップとして失格です。土光さんが生きていたなら必ずや怒っていたことでしょう。土光氏は怒鳴ることでも有名だったそうで、土光を怒号と言い換える人もいたようです。
 僕が直接接することがある大企業と言いますと、やはりスーパーになりますが、そのスーパーでたまに見かけるのが本末転倒の発想で動いている偉い人です。例えば、スーパーの一番利用しやすい駐車位置に車を止めて巡回している本部の偉い人です。また、日曜など最も売り場に従業員がいる必要がある時間帯に訓示を垂れている偉い人です。このような人は偉い人でいる資格がありません。単に、自分の偉さに自己満足するために仕事をしている人たちです。このような人が幹部にいる企業はいつかは危機に直面するでしょう。なにしろ、東芝という大企業でさえ倒産の危機に瀕しているのですから。
 土光氏が会長を務めた第二次臨時行政調査会が発足した理由は、当時の財政が危機的状況だったからです。国をあげて健全財政にしようという気概がありました。因みに、調査会が掲げた提言を紹介しますと
・1984年度までに赤字国債ゼロ
・官業民営化 (国鉄分割民営化、日本電信電話公社、日本専売公社)
・3K赤字(コメ、国鉄、健康保険)の解消
(ウィキペディアより引用)
 です。今の若い人が見てどんな感想を持つのでしょう。なんと言っても興味深いのが「1984年度までに赤字国債ゼロ」です。2017年で一千兆円になろうとは土光さんは想像もしていなかったでしょう。
 じゃ、また。




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