<組織の論理>

pressココロ上




僕は毎年、お盆の季節を過ぎますと一気に「夏が終わる」感覚がありました。具体的には8月15日を過ぎますと極端に暑さを感じなくなるのですが、大げさでもなんでもなく本当に肌に触れる風が涼しく感じられるようになります。ですので、クーラーをつけなくなるのはもちろんのこと、ほかの人がTシャツ短パンでいようとも、薄い生地ではありますが、長袖を着るようになります。そうしないと風邪をひいてしまう気分になるからです。

そんな僕が、今年はまだクーラーをつける日がありますし、Tシャツで日中を過ごすこともあります。こうした事態は自分史上初めての出来事で、それだけ酷暑ということですが、巷間言われている地球温暖化が進んでいることを実感しています。

僕の記憶では地球温暖化がマスコミなどで報じられるようになったのは50年くらい前だったと思います。ですが、当時はそれほど信用していたわけではありません。理由は自分自身が実感したこともありませんでしたし、地球温暖化を否定する記事などを目にすることもあったからです。

例えば、地球温暖化を最も象徴する事象として、北極の氷河の山が崩れる映像がありました。初めて見たときあの映像はとても衝撃的でしたが、その後その映像の信ぴょう性に疑問を呈する記事を読んだこともありました。科学に疎い素人の僕としてはどちらを信頼していいのかわからないのが実際のところです。そうした状況の中、自分の周りでは直接的に温暖化を感じることもありませんでしたので、どちらともいえない気持ちでずっと時を過ごしてきました。

ところが、今年の夏はこれまでとは違っていました。なにしろ例年ですと、8月15日で終わっている僕の夏が9月17日現在でまだ続いているのです。半信半疑だった僕が地球温暖化を実感する事態になっています。やっぱり、地球温暖化って本当なのかもしれません、って気持ちになっています。

そんな僕が先週印象に残っているニュースはなんと言っても「阪神タイガースの優勝」です。特段阪神ファンでもない僕ですが、それでも18年ぶりと聞きますと、やはり一緒に喜びたくなります。

先週までですと「阪神タイガースの『あれ』」としか表現できませんでしたが、岡田監督の許しも出ましたので「優勝」と書くことができます。それにしても、どの新聞も「あれ」で通してきたのですから偉いものです。でも、それって本当は近年極悪視されている「忖度」じゃないのかしら、って思う気持ちもあります。

古より日本には美徳として「気配り」とか「忖度」といった相手を気遣う習わしがありました。ですが、いつの間にかそれらはマイナスのイメージに変わってしまいました。僕が若い頃は、欧米人は「yes no」をはっきり言うのに対して、日本人は「曖昧にする」などと、どちらかと言いますと批判的な意味で言われてはいましたが、それでもまだどこかしら「そうは言っても日本人のいいところ」という思いはあったように思います。

それが完璧に悪い意味に変転したのは、あの森友学園の私有地払い下げ事件での佐川元財務省理財局長の証言です。当時の安倍首相をかばうために事実に反する証言をしたことが「忖度」として社会に広まったからです。「忖度=悪」と決定づけられました。

実は、先週は森友学園事件関連の判決もありました。あまり大きく報じられなかったのはそれこそ「忖度」かもしれませんが、公文書改ざんを苦に命を絶った夫の無念を晴らすために財務省と近畿財務局と戦っている赤木雅子さんの裁判です。詳しくは
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d4f085da1f43c86bae10107fb9390efe0077eb66
をお読みいただくとして、森友学園事件を見ていて思うのは組織で働いている人の「善悪の基準」についてです。亡くなった赤木俊夫さんは「社会の論理」を基準としたことで苦しんでいましたが、佐川さんは「組織の論理」を基準にして出世しました。「組織の論理」に従うのなら「忖度」するのは当然です。

阪神の優勝は18年ぶりでしたが、甲子園では107年ぶりの優勝もありました。慶應義塾高校の夏の甲子園での優勝です。慶應義塾高校の優勝は「107年ぶり」ということも注目されましたが、あと一つ注目されたことがあります。それは森林貴彦監督の指導法です。長髪など外見的なこともそうですが、選手たちの自主性を重んじる指導法はそれまでの高校野球とは全く異なっていました。

それまでの高校野球と言いますと、頂点に監督という絶対的な存在がいて、その下に完璧に従う選手というピラミッド型の構造が一般的でした。しかし、森林監督は練習方法も選手たちと相談しながら決めているそうです。そもそも森林監督の指導法は「野球がうまければ人生OKではない」という発想に基づいています。

部活動は「組織」です。ですが、森林監督は「組織」を基準にするのではなく、選手それぞれの考えを基準にして判断することを重んじています。高校生にさえ自主性を重んじる指導法を実践している監督がいるにもかかわらず、大学で「組織の論理」で部活動が運営されている例がたくさんあります。年齢的には大学生のほうが大人に近いはずですが、それでも自主性を重んじていない部活動には疑問を感じざるを得ません。

数ヶ月ほど前、日大アメリカンフットボール部の学生が大麻所持で逮捕されましたが、同クラブは数年前にも違反タックル問題で大きな批判を浴びました。「社会の論理」に照らしますと絶対に行ってはいけない違反タックルですが、それを犯してしまったのはコーチ・監督からの指示は絶対という「組織の論理」でした。

スポーツ界を見渡しますと、「組織の論理」がはびこっている光景を数多く見ることができます。幾つか例を挙げますと、日本水泳連盟における選手軽視の姿勢、日本バドミントン協会での横領・隠ぺい、バレーボール協会でも不祥事がありました。こうした事件・不祥事が起きる根本にあるのは「組織の論理」がまかり通っている状況です。

今、バレーボールでは面白い大会が行われています。元バレーボール日本女子代表の益子直美さんが設立した大会ですが、大会名を「監督が怒ってはいけない大会」というそうです。僕も高校時代に厳しい練習のクラブ活動に入っていましたが、先生は手を出さないのはもちろんですが、叱咤激励をすることはあっても決して怒鳴ったり怒ったりはしない先生でした。厳しい練習でも、僕が最後まで辞めずにできたのは「怒らない」先生だったことに尽きます。

実際、大会などで見かける強豪チームでは監督が大声で怒鳴る光景も、ときにはビンタをする監督を見ることもありました。チームメイトとは「あんな学校、いやだよな」とよく話していたものです。益子さんがこの大会を設立したのも、怒る指導法では子供たちが楽しくバレーボールをできないと思ったからだそうです。益子さん自身の体験があったことがこの大会の設立理由のようですが、怒る監督のチームでは間違いなく「組織の論理」が横行しているはずです。

「組織の論理」がまかり通っている社会の最もわかりやすい例が独裁国家です。国民個人個人の考えが社会に反映しない社会で幸せな暮らしを送れるはずがありません。しかし、人は時として、必死になるがゆえに「組織の論理」に染まっていることに気づかないことがあります。ものごとに一生懸命に取り組むことは尊いなことですが、時々は立ち止まって考える時間を持つことも必要です。

じゃ、また。




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