本当に、世の中にはいろいろなことが起きるものです。一週間前まではどこのニュース番組を見ましても、トップニュースはロシアのウクライナ侵攻に関連する報道ばかりでした。しかし、北海道知床で観光船沈没事故が起き、さらに3年前の山梨県道志村キャンプ場での少女行方不明事件の新たな展開が伝えられますと、ウクライナ侵攻はあとのほうに押しやられてしまいました。
こうした報道編成は、日本人が見るテレビ番組ですのである意味当然です。亡くなっている方の人数とか虐殺の様子など悲惨さではウクライナのほうが断然に上ですが、日本で起きた事件のほうに関心が集まるのは致し方のないところです。
観光船沈没事故では、報道内容を見ますと、どう考えても経営者に非があることは明白です。通信の重要な手段である「アンテナが折れていた」とか「気象状況から考えて、ほかの業者は営業を自粛していた」ことなど、経営者として安全管理に対する認識が欠如していたことが指摘されています。
報道ではインタビューなどで、他の同業者から批判の声が次々に上がっていますが、それらの報道すべてを鵜呑みにするのには少しばかり違和感を覚えます。マスコミの特性として、一方を悪と決めつけそれを裏付けるような情報ばかりを報じる傾向があるからです。
僕が疑問に思ったのは、観光船を営業するには国土交通省の許可が必要だそうですが、実はこの会社は昨年事故を2回も起こしており、始末書を書いていた事実があるにもかかわらず営業を許可していたいたことです。繰り返しますが、同業者が非難・批判しているような状況であるにもかかわらずです。
ニュースに出てくる社長さんの映像を見ていて僕が感じたのは、あの社長さんは「田舎の企業の典型的な社長さん像」ということでした。もしそれなりの企業であるなら、会見に際しても弁護士など社長をサポートする人が隣に座っているものですが、この社長はひとりで記者会見に対応していました。ですので、記者からの質問に対しても返答が二転三転することがたびたびありました。
先ほど書きましたが、昨年事故を2度も起こし、同業者からの評判も芳しくないにもかかわらず、国土交通省は営業許可を出しています。本来なら営業に際して重要な役目をするアンテナが折れていたり、船長さんの力量に疑問符がついていたにもかかわらず、国土交通省は許可証を出しています。今のところは、観光船の社長にのみ責任追及がなされていますが、「いつ自分たちに批判の目が向けられるか」と国土交通省は心穏やかではないのではないでしょうか。
山梨県のキャンプ地での少女行方不明事件に新たな展開が起きたのですが、その報道に関して僕は気になったことがありました。それは、僕が見たニュース番組で、取材カメラが不明少女のお母様が運転する車に同乗していたことです。その映像はお母様の運転席の隣席から映した映像だったのですが、隣席ということは間違いなく一社だけの取材ということになります。そうしたことが、僕には「抜け駆け感」のように感じてしまいました。おそらくテレビ局からしますとスクープとして評価されるのでしょうが、見ている僕からしますと、不快感しか持ちませんでした。
以前、「スクープとは、世の中の表には出ず、歴史の中に埋もれていく重要な出来事を、細やかな感性と緻密な取材で報じること」と話しているジャーナリストがいましたが、現在のマスコミのスクープに対する捉え方は、「他者を出し抜く」ことに偏り過ぎているように思います。不明少女のお母様が運転する隣席からカメラを向けることもまさにそれでした。
こうしたことはマスコミにも弊害がありますが、対象者にも当惑があるはずです。一般的に取材の対象者はマスコミの素人ですから、取材者に言われるがままに行動するものです。素人なのですから、余程マスコミ対応に慣れていなければ、そうするしか術はありません。ご存じの方も多いでしょうが、実はこのお母様はネットで激しい誹謗中傷を受けています。そうしたことも相まって、マスコミの要望に沿うように取材を受け入れていると想像します。そうであるがゆえに、マスコミは「抜け駆け」に対して慎重になる必要があります。
ウクライナの惨状を伝える映像においても、僕は違和感を覚えることがあります。例えば、建物が破壊され、人々が逃げまどっているようすを映し出したあとの最後の映像に「人形のぬいぐるみ」を映し出す手法です。おそらく取材者は惨状とぬいぐるみを対比させることで、より一層悲惨さを訴えたかったのだと思いますが、僕からしますと「ぬいぐるみの映像」は余計で、無用です。
今の時代は情報戦という言葉があるように、視聴者の感情に刺さるような映像や言葉が社会の流れを変えることがあります。そうであるからこそ、「ぬいぐるみ」を映し出したのでしょう。これまでに幾度か書いていますが、「戦争広告代理店」という本があるのですが、この本は1990年代に起きたボスニア紛争(ボスニアとセルビアの戦い)時のPR戦略について書かれた本です。
端的にいうならば、ボスニアが被害者・弱者であることを世界に訴えるために広告会社と契約し、世界から同情を集めることに成功した話が書いてある本です。見方によっては、このやり方は卑怯と見ることもできますが、広告会社はジャーナリストではありませんので正当な仕事ととらえることもできます。しかし、ニュース報道は広告会社ではありません。事実をそのままに伝える義務があります。そうであるだけに同情を得ようとするような「ぬいぐるみ」の映像は無用です。
僕が「ぬいぐるみ」の映像を無用と考えるのは、その映像が映像以上の効果を与える可能性があるからです。最近似たような感覚を持ったのは、自民党がこれまで使ってきた「敵基地攻撃能力」という言葉を「反撃能力」に変えたときです。「敵基地攻撃」という言葉よりも「反撃」という言葉のほうが正義なイメージがあります。「攻撃」ではなく「反撃」なのですから、正当性も感じられます。実に巧みな言い換えです。
しかし、「敵基地攻撃」であろうが「反撃」であろうが、対戦国の領土への攻撃であることに変わりはありません。果たして、そうした行為が専守防衛という考え方に沿っているのかどうかは国民全員で考える必要があります。
ドラッカー氏は著名な経営者ですが、氏の言葉で僕が一番好きなのは
「変化はコントロールできない。できるのは変化の先頭に立つことだけだ」です。
そうなのです。「変化はコントロールできない」のです。そうした世の中において、日本の防衛とか軍備についても世界情勢に合わせて変化すべきときがきているのかもしれません。先の戦争のあとは、日本近辺において戦争が起きる可能性はほとんどなかったのですが、ロシアの蛮行を見ていますと70年前とは時代が変わってきています。
そうしたときに、最も気をつけなければいけないのは雰囲気、空気に流されないことです。世界が不穏であるからこそ、日本は理性的で冷静になって考えることが大切です。専守防衛とだけ言っていればよい時代ではなくなってきましたが、だからと言ってすぐに軍備を増強するという短絡的な発想では後世に悔恨を残す結果となってしまいます。
専守防衛を唱えていればよかった時代は終わっていますし、専守防衛には裏付けとなる軍事力が必要なことも理解できます。だからこそ、国民全員が現実的に、そして冷静になって考えることが必要です。
でも、投票率が低いんだよなぁ…。
じゃ、また。