<被と非>

pressココロ上




 僕たち夫婦の部屋は狭いので布団を二組敷いてしまうと歩くスペースがなくなります。自然と布団を敷いたあとに部屋の中を移動するときは布団の上を歩くことになってしまいます。
 僕が布団に入って寝ていますと妻が僕の足元を歩くのがわかりました。当然、布団の上を歩くのですが、長い夫婦生活ですから布団に覆われていようとも僕の足の位置は把握しています。ところがそのときは僕のふくらはぎを踏んだのです。それもほんのちょっと少しだけ、ちょうどつねるような感じで踏んだのです。僕は痛さのあまり声をあげようとした瞬間、妻が叫んだのです。
「イターイ!」
「えっ?」。僕は思いました。「踏まれたのは僕のはず…」
 妻は主張しました。
「足になにかが当たってバランスを崩して椅子に頭をぶつけた」と。
 踏まれたのは僕なのに…。
 自動車事故には過失割合というものがあります。「どちらにどれだけ非があるか」の割合です。例えば静止しているものにぶつかった場合は過失割合100対0ということはありえますが、両方が走行している状態での接触においては100対0ということはほとんどありません。少なくとも20%くらいはあります。
 家族と暮らしていますと偶然、肩がぶつかったり足を踏んだりすることもあります。僕はそういったときは必ず先に「ゴメン」と言います。長い間の夫婦生活でそういった習慣が身についてしまっているのです。
 先日、パソコンをいじっていたときです。
 我が家はキッチンと居間がつながっておりパソコンは居間のキッチン側に置いてあります。ですので料理をしている妻の動きを見ることができます。
 その日は娘も仕事から帰ってきており晩ご飯の調理を手伝っていました。僕がパソコンを見ていますと妻と娘の両方が同時に大声を発しました。
「イッターイ!!」 その後沈黙。
 キッチンのほうを見ますと妻と娘が振り向きざまにぶつかったようです。僕はまたパソコンに向き直りました。しかし画面をしばらく見ていてなんか違和感が…。
「ん? なんだろ…」
 両方が「イッターイ!!」と言ったんだよな。「あれ?、そうか…」。
 どちらも被害者だと思い込もうとしてたんだ。「ゴメン」と言ったら「非」害者になっちゃうよなぁ。
 娘は確実に母親の血を受け継いでいます。
 マンション耐震偽装事件で小嶋社長が逮捕されました。当初より被害者を主張していた小嶋社長ですが検察は被害者ではないと認定したようです。この事件で、誰もが被害者と認めるのは住民でありホテル開業者ですがそれ以外にも被害者を主張している人たちがいます。実際に「耐震プログラムにもいろいろな種類がある」などといった新しい事実が出るたびに事件の構造が変わっていくようです。真の被害者はいったい誰なのでしょう。
 現在、企業は情報漏洩に神経を使っています。万一情報が盗まれた場合、企業は被害者でありつつ加害者になる可能性もあるからです。被害者と加害者の違いは視点をどこに向けるかによって変わってきます。一般社会に向けるなら被害者でもあっても顧客に向けるなら加害者となります。情報管理に神経を使いすぎて悪いことはありません。
 自動車事故を起こしたとき「謝ったら負けだ」と言っている人がいました。謝罪するということは自分に非があることを認めることになるからその後の交渉が不利になる、という論理です。この論理には自分を100%被害者にしようという思惑が見えます。「被」と「非」では立場は正反対です。被害者になりたい気持ちもわかりますが「お互いさま」という気持ちも持つべきです。欧米では自己主張することが正しいように考えられているそうですが欧米が全て正しいとは限りません。日本人の謙虚さも評価されるべきです。皆が自分の主張ばかりを声高に叫ぶ社会なんてオイラはヤだな。
 一人でサッカーの試合を見ていましたらディフェンスの選手がフォワードの選手をうしろから押し倒したあと自分も顔をゆがめ両手で覆って倒れこむシーンがありました。スローで見ますとフォワードの選手はディフェンスの選手に背中を向けているだけでなにもしていませんでした。それなのにディフェンスの選手は顔をゆがめ倒れこんだのです。
 僕は試合を見終わったあと妻に言いました。
「サッカー選手に似た人がいたよ」
 じゃ、また。




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