<競走馬>

pressココロ上




今週はショートショート。
<競走馬>
「おお、伸治」
 ベッドに横たわっていた父は、僕だとわかるとはにかんだ笑顔で声をかけてきた。父と会うのは約10年ぶりである。父は「一昔」にふさわしい風貌になっていた。
「急に連絡がきたから驚いたよ」
 
 僕は父をできるだけ避けてきた。なぜなら僕は父の生き方、人生観が好きでなかったからである。父は「前向き」とか「向上心」といった言葉が全く似つかわしくない性格の持ち主であった。僕は全く正反対の性格である。自分がなぜそうなったのかは自分ではわからないが、あえていえば父が反面教師だったのかも…。
 高校生の頃、Aという友だちがいた。僕はAの父親を尊敬していた。Aの父親は大手銀行の支店長を務めており、Aの家に遊びに行ったとき幾度か話をしたことがある。そのときのその博識ぶりと自信に満ちた語り口に魅せられたのだった。またそれは自分の父のふがいなさを感じることでもあった。
 僕の父親は、僕に経済や政治の話などしたことがない。それ以前に会話をほとんどしていなかった。僕の記憶に残っている父の姿はビールを飲みながら片手に鉛筆を握り競馬新聞に見入っている姿である。またはテレビの競馬番組を見ながら「舌打ち」をしている光景である。父は世の中で競馬以外には関心がないようであった。
 
「仕事の調子はどうだ?」
 父の質問に僕はあいまいに返事をしたが、心の中では驚いていた。父が仕事のことなど聞いてくるとは思っていなかったからだ。一種のあいさつ言葉かもしれないが正直、驚いた。
 父は、一応は名の知れた企業に勤めてはいた。しかし向上心があるわけではないので出世などはしていない。退職時の役職は課長補佐であった。出世レースで言えば最後尾にいたことは想像できる。それが父の生き方であった。
 母はこうした父の生き方が嫌いではないようであった。父が課長補佐になったときでさえ「同期の中で一番最後」と笑って話していたくらいだ。私にはそんな母が不思議でならなかった。
 ドアが開く音がすると背中越しに声がした。
「あら、信治。来てくれたのね」
 振り返るといつもの明るい笑顔の母がいた。
「うん、さっき着いたんだ」
 母は父に向かって言った。
「あなた、信治はもう部長になったのよ」
 僕は大学を卒業してから大手銀行に就職していた。当時、大手銀行は人気の高い就職先であり、僕は難関を突破して入社していた。大学時代に既に簿記の資格を取得していたことが認められたと思っている。やはり向上心は大切である。
 就職してからも出世競争は激しいものだった。同期はみな厳しい就職戦線を勝ち残ってきた奴らばかりである。そんな中で部長になれたのは自分でも自慢に思っていた。
 母が「買い物に行ってくる」と病室を出て行くと、また父と二人きりである。僕はなにを話していいかわからない。
 ベッド脇に置いてある競馬新聞が目に入った。
「まだ、競馬やってるんだ」
 父はうれしそうに「もちろん」と答えた。
 僕の仕事場で競馬の話などする奴は一人もいない。もし競馬の話などしたら軽蔑されるだろう。まちがいなく出世競争からは脱落する。
 父が聞いてきた。
「ディープインパクトのドーピング違反事件知ってるか?」
 父は今回の事件をしきりに残念がっていた。
「あんなことをしなくても充分強いのになぁ。焦ってたのかな…」
 「焦ってた」という言葉に僕は職場の上司を思い出した。つい最近、解雇された上司である。成績を上げるために数字を粉飾していたのが発覚して解雇されたのだった。女子行員が「出世を焦ってたのよねぇ」と噂していた。
 銀行は派閥がまかり通っている社会である。僕は解雇された上司の派閥に属していた。上司がいなくなったあと、同じ派閥の仲間は次々に離れていった。社内で不利な立場にならないよう必死に動き回っていた。そんな姿が僕には滑稽に思えた。僕の出世はもう無理かもしれない。
 勝ち残るには勝ち続けなければならない。それには向上心は必要である。しかし、いつも勝ち続けることは難しい。運も必要だ。今回の僕だって自分には全く責任がない。運は大切だ。
 30代の僕だったら「運」などとは言わなかっただろう。「運」さえも努力と根性で引き寄せられると思っていた。そして父を嫌っていたように競争から脱落していく人を見下してもいた。そういう人の人生は「意味ないもの」だとも思っていた。
 僕は父の人生を「意味ないもの」だと思っていたのである。
 父はガンであった。だから母は「必ず見舞いに来い」と言った。
 僕は帰ることにした。父と二人でいても話すこともない。
「じゃ、帰るから」
「おお、今日はありがと、な」
 僕は椅子から立ち上がり帰ろうとしたとき、ある思いが湧き上がってきた。自分でも不思議なのだが、立ち上がった瞬間なんとなく湧き上がってきたのである。
 父は自分の人生をどう思っていたのだろう…。
「親父、ちょっと聞いてもいい?」
「おお、なんだい?」
「今の…、なんて言うか…、人生を振り返った今の気分はどう?」
 父は僕の顔をジッと見つめた。僕の質問の意図を探っているようであった。しばし考えたあと、目元に笑みを浮かべて答えた。
「そうだな…、ハルウララ」
終わり。
 じゃ、また。

紙.gifジャーック!




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