<悪い人>

pressココロ上




 親鸞さんの「歎異抄」にある有名な言葉。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
 善人でさえ往生するのだから悪人が往生するのは当然であるという意。
 私は長い間、上記のように理解していました。キリスト教でいうところの「全てを赦す」と同じ発想です。私は宗教に素人ですので正確かどうかはわかりませんが、たぶんそうです。
「いやぁ、宗教というのはどこも似たような考えを持っているものだなぁ」
と感心していました。それにしても悪人でも往生できるなんて不公平です。
 ところが、先日出会った文章で「自分が思い違い」をしていることを知りました。親鸞さんが言っている「悪人」とは「悪い人」ではなく「悟りを開いていない人」を指しているのでした。そうであるなら私としても辻褄が合います。やはり「悪い人が往生する」のは納得できませんから…。
 「悪い人」。個人的な価値観から「あいつは悪い奴」と思っていても他の人から見たら「そうではない」ことはよくあることです。価値観は人それぞれ違うのですから当然です。しかし誰もが認める「悪い人」もいるはずです。そしてそれを決めるのは裁判です。
 裁判員制度が導入されることが決まりましたが、実施されるようになると一般の素人が悪い人を決めるようになります。私のような法律の知識も裁判の知識も全くない人間でも「ひとりの人間」を裁くことになってしまいます。
 以前、一流大学を出て一流企業に勤める社会人4年目の青年と話をする機会がありました。話の流れから、当時マスコミを賑わせていた「談合」の話になりました。そのとき青年は私に訊いてきました。
「談合が悪いことはなんとなくわかるんですけど、具体的になにが悪いんですか?」
 私は思いました。自分も20年前だったらよくわからなかっただろうなぁ…。私は仕事を通じてさまざまなことを感じ、いろいろなことを知ってきました。もし仕事をしていなかったなら今とは違う人間になっていたはずです。
 またある日、仕事関連の40才代半ばの知人と話す機会がありました。そのときもたまたま「談合」の話になり知人は言いました。
「建設業者の経営者の話を聞くと、談合もあったほうがいいですよ」
 知人は顧客として建設業者と取引きをしていたので談合の必要性を考えていたようでした。
 悪い人を決める裁判制度。そしてそれに関わる裁判員制度。私は問題点が多すぎると思っています。社会人としての経験が浅い人に悪い人を決められるのでしょうか。社会人としての経験が浅いということは善悪を判断する基礎が少ないということでもあります。また、一つの業界だけで積んだ社会経験で偏らず中立な判断ができるのでしょうか。私は疑問です。もし間違ってしまったなら、人間一人の人生を棒にふらせることになってしまいます。
 人間が人間を裁くことの重さ、難しさ…。私は人と人との関係に上下があることを好みません。人間が人間を裁くという行為自体に上下関係ができてしまっているように思ってしまいます。
 イエス・キリストは、不倫をした女性に石を投げつけていた人々に言いました。
「この中で一度も悪いことをしていない人だけが石を投げなさい」
 人間はできれば悪い人にはなりたくないものです。生きているとなかなか難しいですけど悪い人と呼ばれるのは避けたいものです。
 先日、夜中の1時過ぎにお腹がすいたので台所に行き冷蔵庫を開けました。するとおいしそうな「あんみつ」のパックを見つけました。僕は「食べたいなぁ」とは思ったのですが、昨晩、妻が「夜食べると太るから我慢して明日食べよう」と言っていたのを思い出しました。一度は扉を閉めました。しかしやっぱり食べたくなり、迷いに迷った末、僕はあんみつの蓋を開けてしまいました。
 僕は食べながら考えました。
「僕はなんて悪い人間なんだ。でもこの程度の悪い人間なら神さまも妻も許してくれるよな…」
 あんみつも残りわずかになり食べ終わろうとしていたとき、急に台所の扉が開き、なんと妻が入ってきたのです。妻は僕を見、そして僕の手元にあるあんみつに気がつくと怒りを露わにして怒鳴りました。
「この極悪人!」
 僕は「悪い人」をも超えてしまいました。
 じゃ、また。

紙.gif4コマ漫画
ジャーック!





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