<区切り>

pressココロ上




 僕は日ごろからこのコラムのネタになりそうなできごとや思いついたことをメモするようにしています。基本的に「文字を書くこと」を面倒と思う性質ですのでそのメモはほとんど殴り書きといった文章であり文字もミミズがはったような字体です。
 先日、そのメモを見ましたら「なにを意味しているのか」自分でもわからないメモがありました。
「ネエ 長 ……」
 殴り書きでも文章であれば前後の脈絡でなんとか思い出すことができます。しかしたまに文章ではなく単語だけをメモしてある場合があります。このようなときは大変です。このメモもその一つでした。う~ん、僕はなにを書きたかったのでしょう…。
 このできごとで僕は息子が小さかった頃のことを思い出しました。
 息子がまだ小学校低学年、漢字もあまり書けず文字を書くとすれば全部が平仮名の頃です。
 仕事を終え帰宅しますとテーブルの上に息子が書いたと思われる文字がチラシの裏に踊っていました。
「ばあばこめかいむか
 えじいじ」
 B4くらいの紙に大きな文字でこのように横書きで書いてありました。一行目の最後の文字である「か」は紙の端っこにやっと書いた、という感じです。僕と妻はこの文章というか暗号というか、それを見て考えました。う~ん、息子はなにを書きたかったのでしょう…。
 冒頭に書いた僕のメモ、「ネエ 長 ……」はしばらく考えてわかりました。これは「ネ」と「エ」が分かれているのではなくこの二つで一つの漢字だったのです。読者のみなさんもおわかりでしょう。これは「社」と書いていたのでした。しかも「長」と一文字分間隔が空いていましたが、本来は続けて書くべき単語でした。つまりこれは「社長」という単語です。それを殴り書きで汚く書きますと「ネエ 長」と読んでしまうのでした。もし「ネ」と「エ」のあとの「長」がもう少し近づけて書いてあったならすぐに「社長」と読めたかもしれません。変なところで区切ってしまったのが最もわかりづらかった原因です。例え殴り書きとは言えやはり文字は区切りを正確にしないと読めるものも読めなくなってしまいます。
 てな、日々を送っています僕が先週気になったニュースは、東京都が設立した新銀行に関する話題でした。報道によりますと、新銀行は赤字でありその原因は「甘い審査にある」と書かれていました。その「甘い審査」とは「無担保融資」を意味していました。つまり「無担保融資を行っていた」から赤字になった、ということです。
 しかし、しかしと僕は思うのです。担保がある融資が本当の意味で融資と言えるでしょうか?
 パソコンソフトなどを作る会社は担保となるべき物件など持っていない場合がほとんどです。ソフト会社以外にも担保といえる資産を持っていない会社はたくさんあります。そうした企業が担保がないばかりに融資が受けられず発展ができないなら日本の産業の衰退を招くことになってしまうでしょう。 
 担保を持っている企業だけに融資を行うならそれはリスクを全く取らないということです。そのような姿勢の金融機関に金融機関としての意義は全くないように思います。リスクをとって融資をすることが金融機関の本来の姿であるはずです。
 そもそも新銀行が設立された意義はその点にあったのではないでしょうか。設立当初はマスコミも「担保のあるなし」ではなくその企業の技術力や開発力、アイディアなど将来性に対して融資する銀行が誕生したことを評価していたように思います。にもかかわらず先日の報道では、あたかも無担保融資が新銀行赤字の原因であるかのように批判していたのは納得しがたいものがあります。
 僕が見ているニュース番組では融資を受けた男性が「審査の甘さ」「回収の甘さ」を語っていましたが、あまりにも偏りすぎた内容のように感じました。新銀行が赤字に陥っているのは責められるべきことですが、その理由を無担保融資にのみ求めるのは正当性に欠けます。反省すべきは「担保のあるなし」ではなくその企業の「将来性を見抜く眼力のなさ」です。
 しかし、容易に「企業の将来性」がわからないのも真実です。それでも将来性を考え融資をするか否かの区切りを見つけるのが銀行の仕事のはずです。その区切りを見つけられない銀行は金融機関の資格はない、と僕は思ってしまいます。
 あと一つ気になった報道。
「薬害エイズで当時の担当課長の有罪が確定」
 官僚の責任の重さから考えるなら、また被害者の心情からしますと有罪も納得できます。最近になって問題解決に向かっています薬害C型肝炎問題においてもわかりますように官僚の責任はとても重いものです。「不作為」が犯罪になることに対しては官僚側の立場になるなら納得できない気持ちもあるでしょう。しかし自分たちが持っている権限の大きさに照らすなら当然の責任です。
 イージス艦の事故に関しては艦長ばかりか担当大臣まで責任追及の声が起こりました。組織は上に行くほど責任が重くなるのですから当然の反応です。民間企業においてはどの部署であろうと社会に対してミスを起こしたなら最高責任者である社長の進退問題が必ず提起されます。過去の例を見ても雪印しかり三菱自動車しかりです。それほど組織のトップは思い責任を負っています。
 そうしたことを思うとき、薬害エイズにおいて担当課長が刑事罰を受けたのに対してその組織のトップである最高責任者、つまり当時の担当大臣または事務次官への責任追及がなされないのは腑に落ちない気分にさせられます。当時の担当課長に同情する気持ちも起こらないではありません。官僚という組織においても責任の区切りをあらかじめ決めておかないなら官僚を目指す人材がいなくなってしまいます。責任の区切りは責任の所在を明らかにすることです。このことは裏を返せば無責任をなくすことにつながります。僕は、「不作為」は無責任が生んだ所業と思えて仕方ありません。年金の問題においても同様です。あれほど杜撰な管理を長期間だれも訂正しようとしなかったのは責任が区切られていなかったからです。
 どんなことにおいても区切りをきちんとつけておくことは大切です。
 
 ところで…。
 息子が小さい頃に書いた文章、
「ばあばこめかいむか
 えじいじ」
は息子がおばあちゃんから電話で言われた言伝でした。
 この文章をきちんと区切るならこうなります。
「ばあば・こめ・かい・むかえ・じいじ」
 これを解読するとこうなります。
「おばあちゃんがお米を買いに行ったのでおじいちゃんに迎えにくるように伝えといて」
 おわかりになった読者の方、いらっしゃいましたか?
 じゃ、また。

紙.gif4コマ漫画
ジャーック!




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