<基準>

pressココロ上




 僕がまだ20才代の頃、父と「仕事」について討論をしたことがあります。どういった経緯でそのような「堅い話題になったのか」は記憶にありませんが、とにかく意見の対立があり結構激しく言い争いをしました。僕は、現在は昔より感情を抑えることを覚えましたが、当時はどちらかというと激情型の性格でしたので納得できないことがあるととても反発していたのです。
 父は長い間公務員として働いていました。父のその感覚と僕の感覚は相容れないものでした。対立した論点はズバリ「勤務時間」です。話の端緒は労働組合だったように思います。そこから話は展開し、父は例え話として旧国鉄時代の勤務時間について話しました。
 旧国鉄時代は列車の運行に携わる人たちは仕事を終えたあとお風呂に入るのが慣習だったそうです。そしてそのお風呂に入る時間帯が父との対立点でした。
 父の考えではお風呂は「勤務時間中に入る」のが当然でした。それに対して僕は「勤務時間外に入る」のが当然と考えました。この二人の考えの隔たりは大きく結局最後までお互いが納得することはできず結論は出ないまま今に至っています。
 父の考えは
「勤務時間が終わったらすぐに個人の時間になるのだから仕事に付随する行動・行為、つまりお風呂に入る行為も勤務時間中に行う」
 というものでした。つまり「お風呂に入ること」も仕事の範囲内と捉えていました。そうでなければ勤務時間が終わったあとすぐに個人の時間として使えないからです。
 それに対して僕の考えは
「仕事はあくまでも業務を指すものであり、当然お風呂は業務ではない」
というものです。ですから業務でない行為は勤務時間中に行ってはいけないのです。
 その後、親子間においてお互いにこの問題は避けていますので現在でも結論は出ていません。親子と言えども「感覚」が違うならそれぞれの主張が合致するわけはありません。僕は考えました。「感覚」が違う理由はなんなのだろう? 僕なりの答えは次のようなものでした。
 仕事に対する「基準」の違いです。
 僕は、自分の感覚は運動部にいた学生時代に培われたように思います。少なくとも運動部にいたことが僕に影響を与えたのは間違いないと思っています。
 大分前になりますが、運動部について新聞に載った投稿が印象に残っています。
 投稿者は30才代後半の父親です。そのお子さんが通っている中学の運動部の活動について疑問を呈していました。
「土日まで部活動を行うのは親子の接する時間を少なくするのでやめてほしい」
 といった内容でした。僕はその投稿を読んで「この父親は部活動を経験したことがないのだろうな」と想像しました。僕の体験では土日でも練習するのは当然であり、またそうしなければ強くはなれないと思っているからです。
 そして仕事。
 僕は「仕事」はスポーツに例えるなら「試合」にあたると思っています。練習ではなく試合です。どんなスポーツでも、間違っても試合中に準備運動や柔軟体操などはしません。言うまでもなく試合中に汗をかいた身体をきれいに拭いたりシャワーを浴びたり、ましてやお風呂に入ったりはしません。そんなことをしては試合に負けてしまいます。
 しかし練習であればその時間に準備運動をしようがシャワーを浴びようが問題はありません。勝ち負けはありませんから練習に参加することが目的でありその時間になにをするのも自由です。練習により実力が伸びるかどうかは個人の責任です。
 僕にしてみますと、父の仕事に対する「考え」「感覚」は練習を<基準>にしているように感じます。僕の<基準>は試合ですのでどこまでいっても二人の考えは平行したままでいるのは仕方のないことです。
 基準がどこにあるかはとても重要です。例えばあるAさんが考える労働時間の基準が8時間でBさんが考える労働時間の基準が9時間だったとします。この二人が就業時間が8時間30分の会社の採用説明会に行った場合、Aさんは「キツイ」と感じBさんは「楽だ」と感じるはずです。この違いは基準が違うからです。
 また、僕は最近まで賃貸物件を探していましたが、そのときの貸主の基準も借主である僕にとってはとても重要な要素でした。
 賃貸物件の条件には「飲食店可」と「飲食店不可」がありましたが、「可」の物件の場合は僕は借主として「借りてあげる」という強い立場にいられました。この場合は貸主が不利な基準です。
 しかし「不可」の物件の場合は反対の立場です。
 「不可」の物件ですので僕は貸主を説得する必要があります。そうなりますと貸主は「貸してあげる」という強い立場になります。これは貸主が有利な基準です。
 このように物件の<基準>がどこにあるかによって借主の負担には大きな違いが出てきます。借主としては<基準>が借主有利な物件を選ぶに越したことはありません。
 現在、政治の世界では道路特定財源について政府と野党が対立しています。先週、とうとうガソリン税が撤廃される事態になりましたが、政府や地方自治体の首長などは税率の復活を主張しています。それに対して民主党や都会に住んでいる人たちは税率復活に反対しています。この対立も道路に対する基準が異なっていることが原因のように思います。政府や地方自治体首長の考えている基準と民主党や都会に住んでいる人たちの基準が違うのですから意見が統一されるはずもありません。
 さらに言うなら基準の違いは生活全般にあります。地方の方々の生活基準と都会に住んでいる方々の生活基準は同じではありません。このような状況で政治家は判断をくださなければなりません。民主主義は全員が満足できるシステムではありませんのでどこかで結論を下す必要があります。基準の違いはどちらが「正しい」「間違っている」という問題ではありません。どちらの基準を採用するかの問題です。そしてどちらを採用するかは時代とともに変遷するものです。
 どのような結論になっても必ず反対意見は存在するのですから政治家は「今はどの基準が最適か」を考え結論を出してほしいものです。でもガソリンが安いととても助かりますねぇ。
 ところで…。
 金融関係の本や記事を読んでいますと「ベンチマーク」という単語が出てきます。僕は本などを読んでいるときに知らない単語が出てきた場合、面倒なので文脈や前後の文章で意味を推測しながら読むようにしています。「ベンチマーク」もその1つだったのですが、先日たまたま調べる機会があり「基準」とか「標準」と言った意味であることがわかりました。僕的には最初から横文字など使わずに日本語で書いてもらえるとわかりやすのに…、と思ってしまいます。
 横文字でも日本語として定着しているものは僕でもわかりますが、その横文字も時代とともに変化しています。僕などはどうしても昔の言い方を使ってしまいますので娘にいつも注意されます。例えば「カップル」を「アベック」、「ベスト」を「チョッキ」、「ブルゾン」を「ジャンパー」などなど…。でも僕の基準では昔の言い方のほうがしっくりくるんですよね。
 因みに僕の母は「ブランド物」のことを「メーカー品」と言います。素敵でしょ。
 じゃ、また。

紙.gif4コマ漫画
ジャーック!




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