<51才の哲学>

pressココロ上




 「居酒屋タクシー」が問題になっています。一般の会社ですと「お客様にサービスを提供すること」は賞賛されることはあっても非難されることはありません。しかし規制のあるタクシー業界は例外です。
 この問題をマスコミが大きく取り上げる理由は居酒屋タクシーを利用していたお客が官僚だったからです。もし普通の会社員がタクシーで居酒屋を提供されてもここまで大きく問題にはならなかったでしょう。寧ろ「気のきくタクシー」として好意的に伝えられたかもしれません。しかし「普通の会社員でない」官僚がサービスを強要していた事実もあるようですから、マスコミが取り上げる格好の餌食となってしまいました。
 報道では20年以上前から居酒屋タクシーは存在していたそうですし、そのサービスを多くの官僚が受けていたようです。たぶん官僚の人たちは「なんの躊躇感」も「なんの罪悪感」もなかったのでしょう。実は僕も同感です。もちろんサービスを強要することはもちろん非難されるべきですし、官僚という特殊な仕事に従事していることをを考えますとサービスを受けてはいけないと思います。しかし単にサービスを受けただけの官僚に対してはマスコミが騒ぐほど非難されるべき性質のものではないと思います。マスコミが大きく取り上げるのにはほかの意図も見え隠れします。
 官僚が「普通の人でない」所以はズバリ!権力を持っているからです。民間業界を取り締まる“力”を持っている者は普通の人より「サービスを受けること」に慎重さを持っていなければなりません。「なんの躊躇感」も持たなかった官僚も自身が持つ権力の大きさに敏感であるべきでした。官僚のトップを長年務めた石原信雄氏の本などを読みますと、官僚はそうした教育を受けているはずですが、タガが緩んでいるようです。今回の問題を期に認識を改めてほしいものです。
 神さまがお創りになったか、ダーウィンが言うように進化してきたのかは定かではありませんが、人間は完全無欠な生き物ではありません。そのような人間は「どのように生きるべきか」などと夢想に耽っていた僕が先日読み終えたのが今週紹介しています「食う寝る坐る永平寺修行記」です。
 この本は30才の著者が永平寺での修行の1年を綴った体験記です。僕は特定な宗教などに入れ込んでいない普通のオジサンですが、宗教とくに仏教には関心を持っていました。その仏教の中でも道元が開いた曹洞宗には共感するものがあったのが今回読んだ理由です。
 僕が以前紹介した本に「ヤクザが店にやってきた」という飲食店経営者が書いた本があります。その中に次のような一文がありました。
「人はときに見栄をプライドと間違える」
 僕はこの文章を読んだときに「なるほど」と得心したのですが、人間はともすれば見栄を張りたくなってしまう生き物です。官僚がサービスを強要するのも元を辿ればこの点に行き着くような気がします。
 永平寺での修行はこの見栄を徹底的に「取り除く」というより「壊す」ところから始まります。先ほど紹介しました僕が得心した一文では「見栄は必要ない」ものでも「プライドは必要」というニュアンスがありますが、永平寺の修行ではそのプライドさえも捨て去ることを求められます。プライドを捨てさせるために修行者をとことん追いつめる状況を作り出していました。そこには人間の本性を剥き出しにせざるを得ない環境がありました。腹が減って残飯を食う修行者。殴られ蹴られることに対する恐怖に怯える修行者。…僕は読みながら考え込んでしまいました。
 修行ってなんだろ…。
 僕はこの本を読みながら13年前に起きたオウム真理教事件を思い出していました。この事件は殺人や残虐な行為がたくさんありましたがそうした行為を実行したのは信者でした。信者の中には一流大学を卒業した人や社会的地位の高い職業についていていた人もいましたが、僕はそうした人たちが信者になっていたことが不思議でなりませんでした。あとからわかることですが、そうした信者はマインドコントロールを受けていたのです。そしてその方法は永平寺の修行と同じくとことん追いつめることでした。追いつめられることによってマインドコントロールに陥り自分で考えることをしなくなり犯罪を犯してしまいました。
 永平寺の修行記を読むまで、僕はオウム真理教のやっていた修行は信者をマインドコントロールするための特異な修行だと思っていました。しかし永平寺での修行でも同じような修行をしていたのが驚きでした。進んだ方向は間違っていましたが、オウム真理教の修行自体は決して特異なものではなかったのです。修行とは人間の本性を剥き出しにした状態を経ることを意味するようです。人間の本性を剥き出しにした状態とは一言でいうなら地獄です。
 さて、51才の哲学…。
 人間は、地獄を体験した者だけしか悟りを開けないのか?
 戦争は残虐で悲惨で地獄と言えます。人間同士が殺し合うのですから地獄です。その地獄を体験した人たちは「悟りを開いたのか」と問われれば答えは「否」です。戦後の世の中を振り返れば明確です。安保闘争があり公害問題があり残虐な事件は幾つもありました。悟りを開いていたならこうした諸問題・諸事件は起こらなかったでしょう。
 僕が修行記の中で気にかかったのは修行に「暴力が伴う」ことでした。暴力により恐怖心を植え付けそして追いつめ人間の本性を剥き出しにさせることが「悟りを開く」ことにつながるとは思えません。人に「考えることをさせない状況・環境」を強いることは僕にとっては決して受け入れられないことです。
 また、修行では厳しい上下関係が決められています。修行に入った順番で上下関係が決まるようです。僕はどちらかというと体育会系の考えを持っていますのである程度の年令による上下関係は必要と思っています。たとえ能力が劣っていようが年令が上である人を敬うのは当然と思っています。しかし、近年年功序列を重んじる企業が活気を失ったように個人の能力を役職に反映させない組織・社会は衰退してしまいます。年令序列で組織が成り立ちそして役職が上である者が下の者に完全服従を強いる環境は健全ではありません。役職が下であろうが自分の意見を主張する自由は侵されるべきではありません。
  修行記の中で気になったのはいくつかあるのですが、最も気になったのは「途中リタイア」した人たちのことです。これだけ激しい修行ですから当然途中リタイヤする人もいます。そうした人たちについて触れていないことが気になりました。
 途中リタイアした人たちは今ふうに言いますと「負け組」です。負け組の人たちはその後どのように生きていけばよいのでしょう。修行とは優れた者を選別する道具と言えそうです。悟りを開いた人たちは勝ち組の人たちのことです。受験競争・就職競争・出世競争・売上競争で勝ち続けた人たちと同じ勝ち組です。これでは勝ち組でないと悟りなど開けないことになってしまいます。
 先週、秋葉原で殺傷事件がありました。報道では、犯人は自分を「負け組」と称しているようですが負け組でも普通に生きていけるような社会が人間に相応しい社会のはずです。仏教に限らず宗教とは、人間が生きて行く上での拠り所なるもののはずです。その宗教が負け組を生み出しそして負け組に対してなにも対処をしないなんて…。う~ん…。
 51才の哲学は続きます。
 「食う寝る座る」を読んでいますと、永平寺での修行とは単純な生活を続けることによってそこに悟りを求めようとすることであるように思えます。でも、僕は思うんですよ。中小企業や零細企業などで働いている人たちはそれこそ長時間仕事に縛られゆっくり落ち着く暇もありません。当店に来る問屋さんの配送の方は朝4時から遅いときは夜9~10時まで仕事をしているそうです。これって充分修行になるんじゃないでしょうか。本の題名ふうに言うなら「食う寝る《働く》」ですね。「食う寝る坐る」に比べるとより立派なような気がします。朝早くから夜遅くまで必死で働いている皆さん、皆さんは立派な修行者です。
 僕の場合は結婚生活が修行です。
 じゃ、また
紙.gif4コマ漫画
ジャーック!




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