<戦略と戦術>

pressココロ上




 戦略、戦術を辞書(大辞林)で調べますとそれぞれ次のように書かれています。
戦略=長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。
戦術=一定の目的を達成するためにとられる手段・方法。
 これではちょっとわかりにくいので、僕は次のように考えています。
 目の前に大きな川が流れていて、向こう岸まで渡らなければならないとします。そのとき向こう岸の「到着する場所」を決めるのが「戦略」。そして「どのような方法またはコース」で渡るのかを決めるのが「戦術」です。
 例えば、到着した岸に強盗などがいたなら川を渡った意味がありません。できるだ安全で快適に過ごせる岸を選ぶ必要があります。また、渡るコースや方法を誤るなら向こう岸に着く前に流されてしまいます。どちらも大切ですが、大切さの順位をつけるならやはり戦略です。渡る先の岸が決まらないことには渡る方法も決められません。
 最近、新聞などを読んでいて気になることがあります。それは規制緩和の流れが後退しそうな雰囲気がすることです。特に経済の面で強いような気がします。先週来の株価下落などここにきて経済の低迷が起こっていますが、その原因として規制緩和が指摘されることが多いように思います。そのような論調の多くは、規制緩和を進めたために問題が起こったと主張していますが、僕はその意見に賛成しかねます。今は川を渡っている途中の状態です。その途中で、渡るのが大変だから引き返そうとするようなものです。
 僕が規制緩和が後退しそうな感じを受けたのは特定郵便局の最近の動きを新聞報道で読んだときです。この報道の中で、民営化反対の関係者が郵政民営化が過ちであったかのように話していました。民営化によって「サービスが落ちた」とか「お客様にとって不便になった」などと話していました。
 具体的な問題点としてよく見聞きしたのは「郵便と保険に会社が別れたために1つの郵便局の中で行列のできている窓口とガラガラの窓口が生じた」というものです。しかし、このような問題点は民間では工夫をして克服するのが普通です。僕が考えるに、こうしたことを言うこと事態が「意識はまだ民営化されていない」証と見えてしまいます。
 僕は「郵政民営化が後退」などという報道に接しますと、どうしてもNTTとJRを思い出してしまいます。かつて電電公社と言われていた時代に比べどれだけ通信費が安くなったでしょう。そしてどれだけ技術が進歩したでしょう。かつて国鉄と言われていた時代に比べてどれだけサービスがよくなったでしょう。そしてどれだけ便利になったでしょう。大切なのは、企業が生活者にどれだけ役に立ち存在価値があるかです。民営化されたNTTとJRが民営化以前と比べてどれほど生活者に役に立ったかについて異存のある人はいないでしょう。郵政民営化が後退しないことを願っています。
 規制緩和に対する揺れ戻しは郵政に限りません。タクシー業界でも規制が強化されそうな流れになりつつあります。規制が強化されることは役人、つまりは官僚の力が強まることを意味します。官僚は自らの権限を失うことを最も恐れています。それは官僚の存在価値がなくなることにつながるからです。
 僕が官僚についていろいろな本を読んだ限りでは、官僚の中にも省益ではなく国益を第一考えて働いている人もたくさんいます。しかし、組織となると国益より省益を第一義に考えるようになってしまうようです。それと僕の印象では、官僚という組織について「疑問を持つ人」がスピンアウトしてしまうケースが多いように感じます。そうした人たちの多くは官僚を批判的に捉えています。どうして個人の思いと組織の思いが正反対にはってしまうのか不思議でなりません。
 規制緩和や民営化は、経済誌などに書いてある言葉を使うなら、小さな政府を目指すことです。政府が小さくなることはそれだけ国が支払うコストが減ることですが、民間企業では経営が悪化したならコストを削減することは当然の対応です。
 小さな政府を目指すということは、それは国民が国に頼らない意識を持たざるをえないことでもあります。国民としては国によって規制されていたほうが楽な面もあります。国がフィルターの役目を果たすのでリスクを国民が負わなくて済むからです。しかし、国がフィルターの役目を果たすことが困難であることは過去の出来事を見れば明らかです。つい最近も近畿財務局に関連する判決がありました。
 この事件は大和都市管財という会社が問題点の多い会社であったにも関わらず野放しにしていたために多くの人が被害に遭ってしまいました。この事件なども近畿財務局がきちんとフィルターの役目を果たしていたなら防げた事件です。しかし、国に全てを求めるのは現実的はないようにも思います。もし、国に完璧を求めるなら国が必要とするコストも増大しますし、またそのコストが適正であるかを監視する組織まで必要になりさらにコストが増大することになってしまいます。
 このように考えるとき、財政赤字に陥っている日本は小さな政府を目指すしか道は残されていません。先ほども書きましたが、小さな政府を目指すとき国民も意識を変える必要があります。
 それに関して先週のコンニャクゼリーに関する流れは疑問に感じます。コンニャクゼリーが喉に詰まったことが原因で死亡事故が起き、国が指導しました。この事件を聞いて僕が最初に思ったのは、それではモチを食べて同じような事故が起きたときはどうなのか? ということでした。実際、毎年お正月にはモチを喉に詰まらせてお亡くなりになるご老人がいます。しかし、だからと言ってモチを製造中止になどしたことはありません。あくまで個人の問題として処理しています。それに比べてコンニャクゼリーでは製造中止を指導するのは不公平なような気がします。
 それはともかくコンニャクゼリー事故で国に指導を求めた世論の流れには僕は疑問を感じます。中毒ギョウザ事件のように消費者では全くわからないようなケースでは国が関与、規制すべきだと思いますが、この事件での国の関与、規制はそぐわないように思います。少なくとも小さな政府を目指すなら国には頼ることは控えるケースです。
 早くも、僕のところに選挙のお願いに来る人も出てきました。選挙の流れは最早止まらないようですが、自民党も民主党もバラマキ選挙になりそうな雲行きです。言うに及ばずバラマキは小さな政府にはできませんが、バラマキに使う財源はどこから降ってくるのでしょう。一部では「埋蔵金」という名の財源が取りざたされていますが、本当に埋蔵金に手をつけても大丈夫なのでしょうか。一部の政治家は埋蔵金を使うことを主張していますが、それならどうしてもっと早く埋蔵金を出さなかったのか不思議です。今の国の借金800兆円を抱える前に出して然るべきです。なかなか実態が国民にはわからないことが多いですが、想像力を働かせて将来をきちんと見据えた政党、政治家に一票を投じようと思っています。
 ところで…。
 川を渡るに当たって到着する岸を決めるのは重要です。そしてうまい具合に岸を渡り終えてもそれで終わりではありません。生きている限り、目の前には次の川があります。そしてまた向こう側の岸の到着地点を考えなければなりません。生きていくということはそれの連続です。つまり毎回、頭を悩ませ到着地点を考える必要があります。なのでとても疲れます。
 でも、最後の川だけは別です。最後の川の向こう岸の到着地点だけは自分で考える必要はありません。というよりは自分では考えられないのです。
 なぜなら、最後の川は 「三途の川」 だからです。
 じゃ、また。




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