<中流>

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 先週のコラムのテーマは「適正報酬」でした。その中で僕は医師や弁護士を取り上げました。理由は高額報酬を象徴する職業だからです。こうした職業の報酬を抑えたなら、現在問題となっている格差社会も解消されるのではないか、と思ったからでした。つまり格差社会を解消する最も手っ取り早い方法は全ての職業の「報酬を一定」にすることです。
 しかし、「報酬を一定」にするという考えは、いわゆる社会主義に通じます。その社会主義が欠点だらけであることは過去の歴史が証明しています。約20年前に崩壊したソ連では食糧品を買うときでさえ行列を作らなければなりませんでしたし、サービスという概念もありませんでした。また、社会主義のもう一方の大国である中国も経済を活性化させるために資本主義を導入したほどです。
 その資本主義。一時は勝利したかに見えましたが、近年になりほころびが目立つようになっています。一昨年よりの米国プライムローンを発端とした金融危機が世界中を席巻しています。そうした状況に対して声高に言われるようになったのが市場主義への批判でした。市場に自由に任せていては社会は混乱するだけだ、という主張です。つまり、規制を復活させるべきだという意見が大勢を占めるようになっているようです。
 僕が先日驚いたのは中谷 巌氏が、まるでそれまでの主張から転向を表明したかのような本を出版したことでした。中谷氏は、竹中氏が有名になる以前、市場主義や規制撤廃を先頭に立って唱えていた学者です。その中谷氏さえ市場主義を反省しているのですから、格差がいかに社会に影響を与えているかわかろうというものです。
 金融危機が叫ばれるようになってから、新聞の経済欄や経済誌などで頻繁に出てきた言葉があります。「神の手」です。これはアダム・スミスの国富論に出てくる言葉だそうで、「神の見えざる手」とも言われるそうです。因みに、百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用してみます。
 見えざる手(英 invisible hand)とは、アダム・スミスの言葉であり、国富論の第4編第2章に現れる術語であり、古典的自由主義経済における市場法則を指す。神の見えざる手(invisible hand of God)という名でも知られる。
 市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方。個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、社会における個人全体が利益を追求することによって、社会の利益が「見えざる手」によって達成される。このことは、価格メカニズムの働き、最適な資源配分をもたらすものとした。
 これを僕なりに理解しますと、「各個人が自由に利益を追求することによってなにかしら問題や混乱が起きても、いずれ「神の手」によって修正され、最終的には最適な状態に落ち着く」。このようになります。
 このような「神の手」ですが、マスコミでは、「結局、神の手など存在しない」という学者の主張を掲載することが多くなっているように感じていました。そして中谷氏の「反省」の本の出版です。市場主義派の学者の影が薄くなっても仕方のない現状ではあります。
 このようにいろいろな学者の意見が入り乱れていますが、現実問題として日本では格差社会の問題は起きつつあります。もしかしたらすでに起きているのかもしれません。
 こうした状況の中、僕は今ひとつ確定できないことがあります。
「人々は、格差社会を『肯定する』のか『否定する』のか」という疑問です。もっと俗に言い換えるなら、不利で辛い環境にいる派遣社員をはじめとする非正社員という存在を人々は救済しようと思っているかどうかです。僕の感覚では、現在正社員の方々は肯定派であり、現在非正社員の方々は否定派のように思います。
 先週のニュースで「春闘のはじまり」を伝えていました。連合と経団連のそれぞれの幹部たちが大きな部屋で白いきれいなシーツに覆われたテーブルを挟んで座っていました。連合はベースアップを求めるようですが、当然のごとく経団連側は異を唱えていました。
 僕はこの映像を見ていて、先週紹介しました「大リーグのストライキ」に対するファンの声「億万長者と百万長者のけんか」を思い出しました。非正社員の人たちからしてみますと、大リーグファンと同じ気持ちなのではないでしょうか。「恵まれた社員とその経営者のけんか」です。
 連合は労働組合と言いながらその組織率はわずか20%前後です。しかもほとんどが大企業の組合です。非正社員にしてみますと、社会の上層階級の間の揉め事にすぎません。たぶん、「なにが春闘だ」と思っているのではないでしょうか。
 労働組合の組織率である20%という数字で、僕は思い出したことがあります。今から十数年前でしょうか。当時、ビジネス社会で「2割、6割、2割」という数字が盛んに言われました。この数字は会社の中の従業員の割合を示したものですが、「優秀な社員が2割、普通の社員が6割、落ちこぼれ社員が2割」という意味です。企業はこうした社員の割合で成り立っていると言われていました。もちろん、企業としては優秀な2割の社員だけを大切にしようと考えます。優秀な社員以外は企業に貢献していない、と考えていたからです。
 お正月にNHKで討論番組を放映していました。番組の中では昨年来の社会を反映して、当然格差社会がテーマとして取り上げられていました。その討論の中で市場主義を批判する学者に対して市場主義派の代表である竹中氏が反論していた言葉が印象に残っています。
「金持ちを貧乏にしても社会は活性化しない」
 これは、僕が冒頭に書いた、高額報酬を得ている人たちの「報酬を引き下げる」提案を封じ込めるのに最も効果のある答えでもあります。確かに、金持ちを貧乏にしても社会は活性化しません。しかし、少数の上層階級だけが金持ちである社会も活性化するはずがありません。できるだけ多くの人が貧乏を超えた報酬を得ている社会が理想です。
 このように考えますと、理想の社会とはかつての日本の姿を思い起こします。当時、一億総中流社会と揶揄されていた日本の姿です。
 企業は優秀な2割の社員が企業に必要な人材と考えています。しかし、少数の上層階級だけが金持ちである社会が活性化しないのと同じように、2割の優秀な社員だけで企業が活性化し発展するとは思えません。6割を占める普通の社員を活用してこそ企業は発展できると思います。
 社会、企業、どちらも上層階級に属する人たちよりも真ん中に位置する中流の人たちを大切にすることが、人間が生きるのに相応しい社会を築くことにつながるのではないでしょうか。
 ところで…。
 本文の中で書きました「神の手」。市場主義を批判する学者の方々は、「神の手」が作用しなかったから現在の金融危機が起きている、と主張しています。でも、僕には、現在の世界的混乱に対して先進国が協調して対処しようとしている、そのこと。そう思うようになったこと自体が「神の手」ではないか、と思っているのですが、どうでしょう…。
 じゃ、また。




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